[目次]
それから、あのことか。あのことは、特殊すぎて、一般化すると人をあやまることになるかも知れないよ。それに、あのことが医学界全体の構造への批判を実践にうつしつつあるものだとは、まだ少数のほんとうの同志以外には知らせたくない。特殊な状況への特殊な批判だと、敵にも味方にも思ってもらわなくてはならない。でなければ、敵はかさにかかってくるだろうし、味方はおじけづくだろう。今や敵陣ふかく陣をしいているからね。それに、どうしてもぼくが誰だかわかってしまうだろう。
楡林達夫が誰であるかは絶対に知られてはならない。ぼくの大学も。大学がわかったら、ああ、あれは○○大学のことさ、で片づけられてしまうだろう。ぼくは母校だけの特殊事例は容赦なく削ったけれどね。楡林達夫はひょっとしたら俺のところの奴かも知れない、と全国のわるいボスたちに思ってもらわなくてはいけない。そうして医学界はいつまでもぼくに素顔をみせてくれなくてはいけないが、そのためにも誰であるかが知れてはいけないのだ。ぼくが書く時間には限りがあるから、この、東京の電話帳にもないが、わりとシャレたペンネームを、入れかわり立ちかわり良心的医師が使ってくれたらもっと効果があるのだが。孫悟空が髪の毛を吹いて千匹の孫悟空をつくるようにね。ぼくもその髪の毛の一つさ。」「ある医局員が言っていたわ、俺が書いたのかと思うほど、俺のいいたくっていえなかったことを言ってあるって。」「ああ、モニターの彼か。身びいきはあてにならないが、しかし、書いている時、苛められてとうとう駄目になってしまった誰彼のことが頭に浮かんで、そいつの感情移入で筆がすべって困ることがあって困ったよ。そんなパセティックなところは、公衆に独善ととられるから削ったけれど。」(2)期待されない医師 実際、編集会議での非医師グループの医師への批判はきびしいものでした。 ここでぼくは思い当たりました。バラバラで孤立しているものを、ひとつの実体のように三人称複数として扱うことが、そもそもまちがっているのだ。これは初歩的な誤まりではないか、と。単数の組織論、ぼくやあなた自身を、まともな医師として組織してゆく組織論しか現実にはあり得ないのではないか。そうして同じ単数ならぼくも医師なのだから、よそよそしい三人称ではなくて、二人称単数をつかいましょう。そうして、まず、入局後四年のぼくが、あたらしく入局する僚友へ出す手紙を書いてみましょう。医局はかわらなくとも、心構えをもってはいってゆくと少しは違うものです。後から不意にとびかかられるよりも、構えながら近よってゆく方が、同じ猛犬に対してでも少しはましな結果になるというわけです。「日本の医者」も実はそのために書いたものです。人々が慎重に医局をえらぶように、そうして同時にどんな「よい」医局も医局としての刻印をのがれてはいないことを知ってもらうために。 複数の組織論、われわれの組織論も、いつか条件の成熟とともに生まれてくるでしょう。私たちが自身を組織してゆくなかから、必ず時満ちて生まれてくる真の連帯のなかで。「お医者さんはお医者さんさ。そう労組員はかげで言っているよ。労医提携って云ってくれるのも、まあ有難くお受けしてはいるが、医局から呼びもどされたら一も二もなくさよならだ。開業医なら医師会への批判は一言もいわない。民医連だって、――あの一部の労務管理のひどさを君は知っているかい。あそこの看護婦たちは革新陣営からも救けてもらえない可哀そうな労働者たちだぜ。まあ、みんな事情は知っているんだけれども、ね。
要するに医者は医者なんで、家庭の事情なんだから、医師のことはぼくらはむろんどうしようもないし、ぼくらへの医師側の協力も実は大して期待もしていないんだ。本音だよ。先生々々って奉っているのも、半分は病気になった時を考えてさ。これは冗談だが。」 こういう意見を代表として、医師の組織論はないという結論となりました。「楡さんがどうしても書けないというのも、楡さんの頭がわるいんでなくて、これは客観的状況の反映だよ。このままで出そうや。」というわけです。そうしてある男が述懐しました。「考えてみれば、医者もかあいそうなものだよな。看護婦たちはじめ、他の医療従事者との連帯もないし、現場から浮上って大学とのはかないつながりで生きているし。呼びもどしが二年こないと苛々したり、意気消沈したり。患者や公衆との連帯もないし。医局の「分割して支配せよ」の原則で僚友との連帯も入局後だんだんあやしくなってゆくわけだし。ひとりひとり孤立してバラバラで、――それでも医学そのものは男子一生の仕事に値するものとは思うけど、その仕事さえも貫ぬこうと思うと障害が多いんでしょう、いつか皆さんも云っていたように。」(3)あなた自身の組織論(4)入局を前にして あなたの前には、いま「入局」が立ちはだかっている。それなりにたのしかった医学生活は遠ざかりつつある。そうして医局の実態は、ポリクリなどでもう垣間みている。「われは永遠に存在するであろう。
われを入るものは一切の希望をすてよ」 (ダンテ「神曲・地獄篇」。第三歌) こう書かれているという地獄の門の前に立っている気がするといっても大げさとは思えないでしょう。 むろん、あなたは、日本の医師のみちがバラ色だとは思っていない。
(Wozu Dichter in karger Zeit?)とHoelderlinがギリシャの、仮想的な詩的黄金時代を回想しつつうたったように、あなたも、「なぜこんな時代に医師に?」と思っているだろう。 ぼくたちは、たしかに、就職に汲々とする他学部の友人たちを横目でみていました。そうして、サラリーマンと比べて収入は少ないにしても、何か、かげで一段と配慮され、あたたかくつつまれ(Esprit de corps)(団体精神)によって何か知らぬ「神聖な目的」にむかって鼓舞されていると感じてないではないのです。 しかし、これらのイデオロギー的目的をいかに高くかかげようとも、医学界がつくる特権的ギルド組織はわが国にかぎらず、不合理な面を多くふくんでいるようです。A・J・トインビーがローマ法王庁について皮肉っているように「その神聖さ疑いない、なぜなら神聖でなくて、あのように腐敗した、不合理なものが、どうして二千年もつづこうか」である。 このように、医学の有効性の、相対的ではあるが極度の低さを背景に、医学ギルドは、歴史の中で、善意をこえて存在理由をもちつづけてきました。その日本版が「医局制度」です。 もっとも重要な初歩的行動は、すぐれた医師になることです。
あなたに対する他の医療従事者や患者・公衆の信頼は、あなたがすぐれた医師であることを抜きにしては、あり得ません。 なぜなら、あなたのたたかいは、必ずしも街頭でのはなばなしい市街戦ではありません。具体的な状況のなかでの、くるしい、ながいゲリラ戦だからです。あなたは、外から城を攻めおとそうとするキャンペーン(野戦陣営)の兵士ではなくいつかはわがものにしようとする敵の首都つかく潜入したスパイだからです。 現実のあらゆる状況は、おそらく、短期決戦を指向していません。手術のはやさのみをほこる、あまり上等でない外科医の出る幕ではないのです。 そうして抵抗的医師であるためには、あなたが何らかの思想にもとずく革命家である必要はありません。 「医局」の権力の支配原則の一つは、「分割して支配せよ」です。もう一つは、実践現場でなく医局とのつながりにおいてあなたを評価し、操作する中であなたを「医局的医師」にかえてゆくことです。 研究のうえでは、医学部の研究の圧倒的大部分は科学的批判に耐えず、実践の上での有効性にも寄与しないものであることを断言してよいでしょう。「核酸のことを少し知っている」だけで、第一級の医学部の臨床研究室が牛耳れるぐらい、悲惨をとおりこしてコッケイなまでの立ちおくれです。科学者として評価をうけている比較的少数の人を除いて、大御所たちははっきり「ハリ子の虎」であり、ここでは体制ははっきり内容の進歩と真向から矛盾しています。 臨床「医局」での抵抗は、臨床医学の諸性格を反映して、更に微妙、更に隠蔽、奸智に長けたものである必要があります。 そうして、うまくゆけば、あなたのまわりに、ちいさな輪ができるかも知れません。 あなたが革命家であることはさまたげにはならないでしょうが、しかし、医師よりもまず革命家であると自覚するならば、医学の領域でたたかうよりも、せいぜい資本主義社会の栗を喰む手段にとどめておくべきでしょう。 最後に、わかくない人たち、とくに一部の指導層の医師たちの目にふれることを考えて、その人たちにも語りかけたいと思います。 「日本の医者」を出した出版社には、私の本名を教えろという、みずからの名は明かさない怪電話が再三かかってきたということです。私の名を知ってどうするのかは分りません。怒りのあまりだとすれば、冷静によみ返していつわりの点があるかを考えてほしいものです。いままであらゆる好評・悪評がありましたが「まっかな嘘だ!」という批評はありませんでした。哲学者ヤスパースが、論敵の本を好んで読み、感情が出つくしてから必ず再読するというように、よみ返して下さい。長谷川如是閑もそうしたということです。 最後に、私は、もうこの世にいない、ある若い医師によびかける。君は、手術のあと必ずその経過と結果に、客観的なきびしい自己批判をくわえ、それをそえて医局で発表し、さらに批判を乞うた。君はおそらく、そういうことをした日本で最初の医師である。むろん、手術は一人でするものでないから、多くの人たちは、「面子を失った」と感じた。無理解・嘲笑・怒りが君をおそい、君は医局から完全に疎外された。君が某大学外科をついにしりぞき、強度のノイローゼになって、自殺したとき、私は君を殺したものの正体を思った。 そうして、あなたは入局勧誘をもうぼつぼつうけている。その話をきくと、どこの医局もバラ色で、いつか聞いたと思う、そこの暗いうわさは、うそだったかという気がする。しかし、一人でもこう言ってくる先輩がいるでしょうか。「医師の美質は、知識と技術と構想力と決断力と、そうして高い人間性への理解、そうしてそれらを具体的把握と客観的有効性に転化する能力だ。(ぼくの医師論の一端は「日本の医者」P45参照)ぼくらの教室は、正しい医師をつくり、正しい医療を実践するという太い一線で貫かれている。それも、医師の独善でなく、医療の総合性、多元性を理解して、看護婦などとのつよい連帯の上に立ったものだ。真実は一つだという観点から、安易な「指導と信従」ではなく、教授から新入局者まで対等で、きびしく、診療方針や、手術方針の批判・決断が行われる。そういう中でしか、指導者たちの真の指導性は生きて来ないのだからね。むろん、こっぴどく批判されたからと言って妙なところに尾を引くことはない。批判の成果によってみんなが学んだのだから。もとより、日本の医学界の現実は、容易に動かせず、君たちに充分むくいることはできないことはゆるしてもらわねばならない。しかし、ぼくたちの教室の行き方でしか、正しい医師はつくれず、日本の医学をよくしてゆくことはできないのだ。」 内容は一例であるかも知れないが、言わんとすることはおわかりでしょう。 せめてこう言ってくる先輩は?
「ぼくたちの教室は不合理で一杯だ。しかし、ぼくたちはたたかっているのだ。ぼくたちの仲間に来ないか。正直言ってくるしいよ。しかし、日本のほかにもう一つの日本をつくることができないように、日本の医学界は内部をかえてゆくほかはないのだ。君もどこかの医局へ入らねばならないのだ。少くともぼくはぼくのもっているよきもの一切を君に開放する。ぼくも君から学ぶ。たすけあって、正しい医師となり、医局をよくし、いつか医局の構造そのものを逆転させよう。」と、実状を述べつつ、敢て君に呼びかける先輩は?(5)波にのまれて若年寄「いっそ、アメリカの病院へゆこうか。あそこにはすばらしい設備・規律・熱意をもって仕事にうちこまねばならない雰囲気があるという。しかし国際的浮浪技術者になるのもぞっとしないな」「民医連へ? しかし、あそこで学び、医師としてたゆまず進歩してゆけるだろうか。それに、労務管理のひどいところだって少なくないといううわさもある。すぐれた例も知らないではないし、存在そのものは否定しないが、ぼくの身になって考えると自信がない。……けっきょく、入局すれば、何とかなるか。」 結局、大多数の人間が、何とかなるさと思って入局する。医学界は、学生時代は比較的「たのしさ」を味わわせておいて、入局と同時に、ギルド的な一切を、全幅的におしかぶせてくるので、ひとたまりもなく医学生はその波にのみこまれ、こんど波間に浮かび上がった時は若年寄ふうの医学部特有の人生観になりかわっているのです。「医学生時代はたのしかったな」、入局後五、六年の人間が飲み屋で集まってうさをはらず時、落ちつく先はきまってこうです。 しかし、ほんとうにたのしかったのか? ハイキング、パーティ、痛飲、――しかし、それらは青春共通のものです。教授の禿頭にキスする無礼講――医学部的馴れなれしさだが、ままいいでしょう。しかし、実習の討論は徹底的で、実験は研究に内在するよろこびときびしさにあふれ、講義は学問への意欲をもりたてりものであったか?
それではあの「たのしさ」はどこから来たのでしょうか?(6)幸福な科学技術=医学 その点は学生時代と連続です。社会学者、労組員たちはじめ、外部の人たちが、「あなたたち医師は孤独だ」と言うとき、医師は孤独なのか、と一瞬ためらい、ぎょっとしなかったでしょうか。 医局にはある連帯感がたしかにあります。それと外部の人たちの「客観的観察」との、このズレはどうしたことでしょうか。 フリードリヒ・エンゲルスは、一八八三年、ある紙片にこう書きとめています。
「古代の都市国家(ポリス)、中世の都市または同職組合(ギルド)、土地貴族の封建的同盟――は、一次的な経済的目的のほかにそれをおおいかくすために、いずれも副次的なイデオロギー的目的を持ち、この目的の神聖さをうやまっていた。……ただ資本主義社会だけが――徹底的に正気で、積極的ではあるが、低級な社会である。」(「マルクス・エンゲルス選集」第十七巻一四九頁、大月書店、一九五四年)
このあと「未来の共同社会は、資本主義社会の正気さを、古代世界にあった社会の福祉に対する配慮と結合し、これによってその目的を達成するであろう」とつづくのですが、それはさておき、あなたが医学部をえらび、医師をえらんだ動機のひとつには、「正気で低級な」現代資本主義社会から一枚のうすぎぬででも距てられていたいという、ひそかな願望がなかったでしょうか。 かつての世代は、財産つくりのみちに医師をえらびました。戦中派たちは、徴兵のがれにえらびました。「応召されても軍医はまし」というわけです。この二つともアメリカには多い。ことに入学無試験のアメリカの大学ですから、とくべつの猶予試験合格者のほかは医学生だけが徴兵猶予になる特技をもっており、医学部を卒業するだけはしながら、他の職業についている人もかなりあるということです。(研究者に多い) これら二つの動機は今の日本の青年を医師にさせる主な動機ではなさそうです。そうして高度な資本主義社会、敗戦によって神がかったゆきがかりや手のかかるようになったはずの植民地を捨て、国内市場の縦深をふかめ、いまや所得倍増路線をほこる、現代日本の資本主義社会の中で、あたえてくれるものに何があろうとも、「生きがい」だけは自分でみつけねばならないのです。サラリーマンが「わが社・わが社」という時、生きがいの影の影にでもすがりつこうとする無意識の心理的技術がかくされています。 しかし他方、医学は、現代資本主義社会にあって、必ずしも幻影ではない「神聖な目的」を人に与えうるもののひとつです。しかも、物理学者とちがって、成果が人類を破滅にみちびくのではないかと恐れなくともよい幸福な科学技術のひとつです。(それは一部あやしくなってきましたが――たとえばポリオ弱毒株を人工突然変異によってとる方法は、強毒株をとる方法論をも同時に与えるのです)ナチス軍にしたがってソビエトに侵入したあるドイツの軍医は、侵略戦争に参加しつつも、少くとも、人命をすくう点ではソビエトの軍医と、「みえざる同一の旗のもとに」目にみえない別のたたかいを協同で戦っているのだと考えて自分をなぐさめていました。(このなぐさめが真正なものかどうかは、あなたの哲学にゆずりますが) また、ヨーロッパでは、大家の教授たちも、講義にあたって学生たちに(Meine Kollege!)(同僚諸君!)と呼びかけるそうです。神聖ものの前には王も乞食もひとしいという発想においてです。あなたもまた、医学への敬虔さにあふれた教授(せんぱい)をくらべて、「医学」そのものがあたかも自分の体の中に体現しているかのようにふるまい、未熟者たるあなたを木の葉っぱのように扱う教授を不遜と感じているでしょう。 「学問への敬虔と病者への惜しみなき献身、――みずからの無力を自覚しつつ」これはほとんど永遠の医師像です。とくに西欧のひとたちが口にする、医師の「神聖な目的」です。(7)閉鎖的な人間関係 Howard S. Beckerら四人の社会学者が、カンサス大学医学部にもぐり込んで行った医学生の文化人類学的調査があります(未開社会を調査するのと同じ方法で行ったわけです)("boys in White", Univ. of Chicago Press, 1961)それによると、わが国の医学生に共通する点が多くあるようで、教師によく思われたいという傾向が他学部にくらべて非常につよく、それは医師社会では非公式の人間関係が重視するためで、入学、インターンやレジデントの採用でも学力よりも遥かに高い比重が面接におかれるようです。(「医学史研究」十号、六二九頁、中川米造氏(阪大医学概論教室助教授)の紹介による) ところで、エンゲルスは、さきの引用の中で、一次的目的を経済的なものと言っています。しかし医師が、いつの時代、いつの社会でもつくる閉鎖的・特権的ギルドの形成理由は必ずしも単純な狭い意味で経済的なものとは言えません。 すなわち、高い技能的卓越とそれのもたらす利益の閉鎖的独占のほかに、いくつかの理由が考えられます。 一つは、医学の有効性は歴史をつうじて非常に低かったことを背景にして、しかも公衆に威信を以てのぞみ、公衆からの攻撃から身を守ることの必要です。古代の報復法は、患者の腕を治療できなければ医師のうでを、殺してしまう結果になれば医師の生命そのものを奪うと規定してあるものが多い(ハムラビ法典など)ので、実際医師たちは結束してそこを何とかごまかさねば生きてゆけなかったでしょうが同じ理由は、今も別のかたちであるわけです。 また、人間の社会には、常人の忌みきらう事で、せねばならぬ事がいくつかあります。ミカ・ワルタリの小説「エジプト人」には、みいら作りと医師のつながりが書いてありますが、医師団も、常人からスカウトした人間を、とにかく常人の正視し得ないものの中で高度な技術を的確に実践する人間に仕立てねばならないわけで、そのために心理的詐術が必要となり、それは閉鎖的集団で行わねばできないような負のものであり勝ちです。ソルボンヌ大学医学部の伝統として、実習室に入ってくる新入生たちに上級生が人肉のこま切れを雨あられと浴びせかける習わしがあるそうですが、これなどまさに騎士の入門式のような、drasticな心理的入門式です。(8)あなたのうちなる「医局」 私は「日本の医者」のなかで、日本の前近代医学の中に、内発性の高さをみましたが(P129)、しかしその代表である華岡青洲の世界最初の全身麻酔法の達成にしても、それがその後の発展をうんだわけではないのであり、その理由に青洲の医塾の極度の閉鎖性があげられ、実際「麻酔散」は、秘伝として、いわゆる免許皆伝の弟子が天地神明に誓ってでなければ処方を教えてもらえなかったわけです。 このような極度の閉鎖性は、しかし、理由のあることなので、教育・研究・実践の一貫した制度がそなわっていない状態で、一知半解の弟子が処方だけもち帰って開業地で使ったら大変なことになるわけです。 日本の「医局」制度成立の事情は「日本の医者」にもふれてあり、さらに研究を重ねていつか、もっとくわしく、まともに書くつもりですが、「海軍と医学だけは世界の誇り」と信じ込まされていた明治期の日本の医療は、教育はそなわって行ってもまともな病院はなく、大学のなかったところ、たとえば岐阜県では、大正初期まで県中で博士はただ一人、そうして、研究のための附属病院や慈善ではなくて、診療そのものを以て立つ近代的病院は、実に大正十二年の倉敷中央病院がはじまりであることは言っておかねばなりません。 しかし、必要は如何であろうとも、つくられたものは、丸山真男氏の言う意味での、「極度の責任集中性が、そのこと自体の論理によってぼう大な無責任の体系に転化する」(「現代政治の思想と行動」未来社、一九五六年)という意味での天皇制の縮刷版でした。この天皇制縮刷版は、とくに日本に限らず形成されがちな医師ギルドの存在理由に実によく適合するわけで、一九四五年以降、多くの他の縮刷版がその「神聖な目的」とともに崩壊したのちも残存し、危機をいくつものりこえて適応し切ってきたわけです。そうして社会の変貌や科学の進歩によって露呈してきた一切のマイナスは、医局員個々人の負担に転嫁しているわけで、ここに「諦念の世代」であるわれわれの状況があるのです。 しかし、そのような「無責任の体系」が、人の生命を左右する医学において、いかに端的な危険性をもつかは、はっきり知らねばなりません。 端的な例をあげれば、ある大学病院では教授が、正常妊娠子宮を、(忙しいためにこんなバカなことが起きたのでしょうが)子宮筋腫と誤診したので、主治医は真実を知りつつ、若い未来の母から一切母性となる可能性を奪う全剔出を敢行したのです。名ざしはしないが、事実については責任を持ちます。 あなたが入局後五、六年たつうちに、あなたもまた、怯ゆえに患者を見殺しにする痛切な体験を必ずや持つでしょう。持たなければ幸運か、それともあなたの眼が見えなくなっているからです。私には、あります。 もちろん、日本の医療技術は、世界の医療技術の一環として、制度の如何をこえて、無数の生命を救い、病気を着実に治るものとしてきました。しかし、そのかげで、制度による無数の「殺人」もまた、ひそかに行われてきたのです。医師が、いかに医局での連帯感にひたろうとも、そのことは、他の医療労働者や公衆との断続・孤立のみならず、人の生命のひそやかな犠牲の上に成り立っていることをも知らねばなりません。医師は、「医学」からすらも疎外されねば、医局の中での連帯を長期的にはつらぬけません。平たく言って、現場よりも大学、患者への献身よりも医局への忠誠を高く評価する「医局」では、「医学」から疎外されまいとするあなたの意志はいつかそれと矛盾・衝突するでしょう。 このことを知った時、私と医学界との連帯は終りました。 私は、翌日から別に変ったことを始めたわけではありません。しかし、私の周囲の状況は、まったくそのままでありながら、突然相貌を変えて、私は、敵の首都にまぎれ込んだスパイであるかのような、孤独な自分を感じました。私はこの時から、別の医師あとから知ったある医師集団の表現にしたがえば、「黒い医師」になりました。高度の医療技術を前提とする近代医学の実践の場を、現存の大学病院中心の現行制度の外にもう一つつくることは白昼夢なので、私は大学をうごきませんでした。 あなたも、いつか、そういう孤独を感じる状況におちいるかも知れません。すでに予感しているかも知れません。しかし、予感と実感とは別です。それはほんとうの孤独、さしあたり誰にも訴えようのない孤独です。医師は、公衆や他の医療従事者から、遠く遠く、きりはなされているのです。連帯をはなれることには一瞬だが、ただちに別の連帯に入れるわけではない。それはながくくるしい創造的努力ののちにやっと生まれるものなのです。 しかし、おそらく、日本における正しい医師への復帰のみちは孤独を感じることから始まります。あなたは、何よりもまず、孤独に耐えてゆくようにしなければなりません。 医局での安易な連帯は、必ずや一度はなつかしくなるものです。暗やみに一歩一歩をすすめてゆくとき、遠ざかりゆく街の灯の何となつかしいことでしょう。たとえ、その灯のもとへ行ってみれば、なげかわしいことが演じられていることを重々承知していようとも。 孤独に耐え切れず、戻るとしても、すくなくとも、あなたは、ある正しい認識はもち得たのだから、積極的に医局の否定面に加担することだけはしない決意をして下さい。さっきの教授の誤診にしても、手術を強行するか、教授に喰ってかかるかの二者択一ではありません。患者をそっと呼んで事実でなくとも「この病院はじつはベッドが混んでいましてねェ。○○病院なら早くできる。」とかなんとか言って逃してやればいいのです。あらためて正しい診断をうけるチャンスがあるからです。そうして教授には「さっぱり、その後、来ませんねェ。」ととぼけておけばよいのです。 けれども、孤独に耐えよ、ということはいちずに思いつめたり、ひとり狼を気どれということではありません。 そうではなくて、「医局」の連帯が疑似的なものであると認識できるような、真の連帯を知り、その中に生きることがまず必要です。さしあたり、あなたが、妻、友人、恋人などによって、真の連帯の味わいをすでに知っているならば、それはよいことです。知らなければ、知るようにつとめてください。 なぜなら、「医局」はすでにあなたの裡にもあるのであり、医学生時代の「たのしさ」の一部は、それをあなたの中にこめるための詐術だったのであって、ドイツ人たちが、まず、「われらのうちなるヒットラー」(ピカート)とたたかわねばならなかったと同じように、真の連帯を知ることは、「あなたのうちなる医局」とのたたかいになるのです。 あなたの中にすでに「医局」が住んで、思わぬところで頭をもたげ、そのたびに意識によってそれを克服せねばあなたをくじくことのみでなく、まだ戦っている人たちを深くうら切ることになる――このことは忘れないで下さい。(9)天上の火を盗む すぐれた医師とはもとより、医師の中の階級的卓越をさすのではありません。 すぐれた医師となる教育の場は「医局」です。「医局」がどういうものであろうとも、わが国の近代医療技術を全国の医局がにぎっている限り、プロメテウスが天上の火をぬすんで人間にあたえたように、われわれは、近代医療技術をそこから汲みとり、ぬすみとり、みずからのものとしなければならないのです。 もとより「医局」の近代医学教育が近代的でないことは百も承知して下さい。批判的に吸収せよ、といいたいのですが、しかし、医療技術習得の過程には、医学の発達段階の現状を反映した意味で泥くさく非合理にみえる部分があります。「医局」制度のせいにして、その面をサボってはいけません。潜入したスパイほど、敵国の首都について、より好みせず熱心に学ぶものはないのです。 どんな医局にでも、中堅層に一人か二人、すぐれた資質の医師があって、フォロウしてくる後輩を愛し、おしみなく教えみちびき、質問にこたえ、いっしょに考えてくれる人があるはずです。そういう人をマークして積極的にフォロウするのがいいでしょう。”教育本能”は存外人の心に深く巣くっているからであり、惜しみなく教えることをのぞまぬ人はしばしば自分の内容がまずしいからです。私の医学の大部分は、具体的には二人のすぐれた無名の先輩のこのタイプの指導によるものです。場所こそ「医局」、しかし、しかし「深夜」医局でおこなわれたものです。 すぐれた医師とはどういうものであるか、を私はここで頭ごなしに申しません。それは医療技術の現段階からの要請から、公衆の意識からの要請にいたる、はばひろいものに支えられているものであり、半ば未来のものです。より正確に言えば、逆に未来を先取しているものでなければ”すぐれた医師”像ではあり得ません。 それを「医局」の中で矛盾とたたかいながらもとめて下さい。 「医局」がどういうものであろうとも、現時点におけるその最大の弱点は、医学の進歩をまともに荷うことができず、それを阻害しつつあり、その点に限れば、医学界のボスたちも「何とかしなければならない」と考えつつあることです。彼らはもとより適応・適応また適応を考えているのですが、それはさておき、体制が内容と矛盾し、さらにその進歩と矛盾することこそ、誰かさんのことばをかりれば「医局」制度の「ハリ子の虎」性を証明するものです。 あなたがすぐれた医師となることによって、あなたが、いかなるたたかいのなかでも公衆からの信頼に支えられるようになるだけでなく、医学界の矛盾を具体的に、そうして烈しい抵抗感を以って知り、それをみずからと医学界をかえてゆく実践の中で生かすことができます。さらに、守勢にたったときの大きな強みとなります。ほんとうにすぐれた医師はいまの日本では少数であり、すぐれた医師が公衆や他の医療従事者、あるいは僚友医師の支持にささえられたとき、彼がいかに権力をもたず、支持がまた無言のものであっても、医局権力は、アメリカが南ベトナムで攻めあぐんでいるように、彼をにわかにどうすることもできません。 私は、医局に対する抵抗のかずかずの挫折を見聞きしていますが、きびしく言えば、権力のむき出しの暴威のもとに破れ去ったというより、それに先立って、みずからの意識の変質により自壊し去ったことが多いのです。権力の突いてくる二つのわれわれの側の弱点のひとつは、われわれの中にも住む「医局」であり、いまひとつは、われわれがすぐれた医師でなくなることです。 単純に「ほす」ことでは必ずしもない、むしろ、医師という専門家だけの閉鎖的世界のある安易さにあなたをまず落し込むことによって、あなたを変質させてかかるのです。あなたはその前処置を、もう医学生のときにうけているかも知れません。 「医局」生活の日々は、ときに、あなたを「水の上に字を書いている」(シュレイ)ような徒労感におとしこむかも知れません。しかし、現体制がいかなるものであろうとも、あなたの夢想する何らかのよりよき体制が現実のものとなるまで、日本の人民はさしあたり、現体制のなかで、みずからの健康をまもってゆかなければならないのです。そうして、こと医学に限っては、市民は、うけている医療が近代の最高水準であるか、いかなるゆがみによってそれから低落しているかを、医学の高度の専門性のゆえに正しく評価することができないのです。それゆえ、健康をまもるたたかいの中でのあなたの責任は一方的な重みがある。医師としてきびしく服務して下さい。そのことは、また、専門性をかくれみのとして、市民に最高水準の医療をさずけているかのような幻影を与えつつ、医療の最高水準に追いつこうとしている戦後日本の医学界のドン・キホーテ性を、すくなくともあなたが認識し、そうして時到ればあばく最大の準備となります。 さらに病気とたたかう医師の英知は、体制とたたかう医師の英知にそのまま通ずるのです。 変化する状況の的確な把握、無限の忍耐とデーターの慎重な採取、タイミングをみての決断と行動、一時の成功に迷わず、しかも最後まで絶望しないこと、あらゆる意想外の事態に突差に対処すること、また、事態の「甲斐なさ」によって事態を見放さないこと、これらは医師固有の美質であるとともに、またそのまま抵抗者の美質でもあるのです。(10)ゲリラの四原則 医学界におけるかず多くのキャンペーンにはそれなりの成果はありました。しかし、その中で医師が、外からの攻城者に立ちまじってしまったことに、それらのキャンペーンの最終的挫折の原因があります。ほんとうは内外相呼応するものであるためには、条件の成熟がなかったからであるのですが。 ゲリラ戦が、そもそも特殊な状況に埋没した。それぞれ特殊な戦いであるがゆえに、―義的なインスタント戦術論はありません。分析と直観による状況把握という医師の能力をもちいて、あなたの状況をまず把握し、それにしたがって、あなたが考えて下さい。 ただ以下のことは、常識であるといい切ってよいでしょう。
① あなたは、恒常的には無力であり、時として何ごとかをなしうるにすぎない。
それはあなたが敵中ふかく陣を布いているからには当然のことです。
② あなたは、長期的には必ずいくつかのあやまちをおかす。又、何もかも見えなくなるときがある。それはあなたの頭のよさと無関係である。
もし、そんなことはない、とあなたが言うならば、私はあえていうが、あなたはそもそも、何に関しても戦った経験がないのである。はやい話が、ひとりの異性の信頼と愛情をかちとる「たたかい」――恋愛においてすら、あなたの頭のよしあしに関係なく、時にそういうことになるではありませんか。
③ 日本の医師は、歴史によってあらゆる連帯からたち切られており、連帯は、医師の側から一方的な努力としてかちとるほかはない。公衆は医師が「医局」といういつわりの連帯にのみ生きてきたことに絶望し切っており、あなたは、たとえ内面がいかに良心的医師であろうとも日本の医師の「原罪」として十重二十重に不信の眼によってとり囲まれているのである。
すくなくともこの三つは、さしあたっての「常識」であると思います。常識とは、われわれの状況の基本的条件です。「常識」にしたがっていろいろなことが起こったとき、それに苛立たないで下さい。「常識」にいらだつことは、「ねえ、こんな風でなくって、あんな風であってよう」と、現実にむかって甲斐ないおねだりをすることです。
最後に常識をひとつ追加します。
④ 現実によってうまれた状況は、現実のなかでの現実に則した行動によって、かつ、それによってのみ変えることができる。(11)持久戦の日々 私が学生時代のころの脳外科の手術は、実に単調な、長い長いものでありました。そうしてその大部分は、銀クリップで、中膜のとぼしい破れやすい脳の血管をひとつひとつ止めてゆくという、それだけの操作のくり返しです。私はそのひとこまを思い出すのですが、それはわが国脳外科の草分けの一人が、手術中の出血とたたかっていた姿です。彼は、出血部位に止血ガーゼを押しあてながら、ただ突ったっていました。二十分たち、三十分たちました。脳外科の壮烈さを夢想してあつまってきた医学生の一団がぞろぞろと去りました。見学の医師たちも一人、二人と忍び足で立ち去ってゆきました。手術助手や看護婦たちの表情も呆けてきました。麻酔医のよみあげる血圧・脈拍・呼吸数の低声(バス)だけが単調に淀みなく流れる手術室(ザール)の中央に、かれは極度に緊張した表情で不動のまま立ちはだかりつづけていました。露出した脳にガーゼを押しあてながら、ほとんど永遠に立ちつくすかのようでした。 この時の彼に、この状況における最高の活動をみないものは、われわれのたたかいに向いていないと思います。しかし、同時にひょっとしたら医師そのものに適していないかも知れないことを考えあわせてください。 もとより、その後、脳外科の手術はいちじるしく短縮されました。それは、技術的諸条件の成熟がすすんだからです。われわれのたたかいも、諸条件の成熟とともに、変った質のものとなるでしょう。しかし、それが現在の状況の中をたたかいぬくことによってのみ到達しうることは言っておかねばなりません。(12)共犯者の痛みから あなたが近代的医療をほこる日本で、その谷間にはさまれて、それにあたいする治療をうけずに死んでいった誰彼の顔を思い浮かべ、また「体制」による「殺人」のひそかな、怯懦な目撃者(共犯者)であった体験をもち、それを痛切なものと感じているならば、それは、最高の動機です。 あなたが抵抗のなかで、実践をとおして、なんらかの思想にむすびつくならば、そのむすびつきはほんものであり、それはよいことです。しかし、そのときも原点と遊離させないで、その思想をきたえてください。そうして、あまり上等でないトランプ競技者のように、それを最高の切札としてやたらにふりまわさないで下さい。さもなくば、いつかあなたは、むやみに切りたがる低級な外科医になり、つまはじきされたり、敬遠されても仕方ないことになるでしょう。(13)抵抗的医師の日常生活 ゆえに、さしあたり、少数に、絶対に信頼できる厳選した人たちのほかには冷静な「紳士」であるのがよいでしょう。相手をみずにパンフをわたしたり、傾向的なことばを使わないことです。しかしまた、いつも本心を明かにしない無気味な人物だと思われない方がいいでしょう。 みずからを不用意に露呈しない最良の方法は、沈黙ではなく、あなたがごく普通の意味で興味をもっている、「ほかのこと」について、ごく普通にかたることです。 医師ではない、看護婦などの医療従事者に対しては、職務上はきびしく、しかし、それをはなれては、人と人とのやさしい心をかよわせるようにしてください。エリートの意識はすでにあなたのうちに「原罪」として、また医学生としてそだつ中で、深く根を張っているので、最初のうちはcondescend(いつわりのへりくだり、皇族が平民をきどるような、いやらしい態度)の感じを与えることは必然ですが、その克服は、心理的正面突破以外になく彼女(彼)らの信頼をかちとる方法は、人間一般の信頼をかちとるのと本質的にかわったものでありません。 あなたは、また、看護婦たちの医師批判に一度は舌打ちしたくなるでしょう。しかし、そこで心をとざしてはなりません。 医師は、医療行為者としても特権的な存在です。あなたが単調で、つまらない、ルーチンのことと思っている作業をも、彼女たちは、禁止された者のみが持ちうる、はげしい憧憬の眼でどんなに熱心にみつめているかを、考えにいれておくべきでしょう。 そうして彼女たちの医師批判が、表面、どんな形態をとろうとも、本質的には倫理的批判であって、彼女らが不器用でも熱心な医師にどんなにあたたかい眼ざしを注いでいるかを知るべきです。 あなたは科学的動機から医師になったのかも知れません。しかし彼女らの圧倒的大多数は、科学的動機ではなく、倫理的動機から看護婦のみちをえらんだのであることを念頭において下さい。経済的動機の質と比重も、一方で若い女性の求人難、他方で医師が莫大な収入を未来に約束されなくなった事、のために、実際は、両者あい等しくなりつつあります。医師の側に形骸化したエリート意識があるだけです。 形骸化したというのは、戦後、医師教育の過程が大学と医専の別をなくして一本化したのと平行して、看護婦のほかX線技師や衛生検査技師の資格と教育コースが確立してゆき、医師は、万能の医療行為者でなく、多元化した医務労働の中で、(知識・技術ではなく)構想者、決断者として医療労働の一つの「結節点」に転化しました。そうして、逆に、従来、医師の性能と考えられてきた知識・技術・潜在的万能性は、逆に。今いった意味での「結節点」であるという観点からあらためて意味づけられ、要請される特性に転化しているのです。それぞれの重要性はそのままでありながら。 これは私の考えですが、もしこれが正しいなら、医師のエリート意識は一旦解体され、「結節点」としての責任意識に生まれかわらねばなりません。解体しているはずのものが解体していないから形骸化というのです。 すくなくとも医局でのワイ談や看護婦へのからかいにはもっとも少なく加わって下さい。たとえ、彼女らが表面それに応じ、談笑しようとも、彼女らの、看護婦としての、女性としての誇りが、あなたに見えない深いところで、どんなに鮮血を流しているかを思いはかってください。 上級医師に対しては、人をえらんですすんで教育をもとめ、プロメテウスが火をぬすむように、技術などをあなたの身につけることは、先にのべましたが、教授などにすすんでへつらうことはさけて下さい。それは「スパイ」としての意識のもとですから、限度があります。「あいつですら……」と、他の潜在的良心的医師を絶望させるにちがいないからです。 上級者からの縁談は、上級者からという観点である限り、ことわった方がいいでしょう。最良のことわり方は、うちあけた口調で、「片おもいだが好きな人が遠くにいるのです」と答えることです。ことわるために「恋人があります」と答えて引込みがつかなくなった例が存外に多いからで、これならば、誰をもきずつけないでしょう。 一般にプライヴェートなことは、無害なエピソード以外は、医局内部では知らせない方がよいでしょう。医局は、あなたの抵抗がある段階に達すると、必ずプライヴェートなルートによって、あなたを牛耳ろうとかかるでしょう。恋愛も、医局でからかいの対象なるほど公然なものとしない方がいいでしょう。 それは、副次的には、からかわれているうちに、純粋であるべきあなたの意識に変質が生じ、結婚すると否とにかかわらず、長期的には、ある微妙な解体へとみちびくのです。 医学界を知らない、外部の女性である場合、「お医者って、ステキだわあ」という段階で恋愛を成就させない方がいいでしょう。彼女の現代日本の医師への理解がその程度のままであるなら、あなたが医師としてふつうの意味で成功すると否とにかかわらず、不幸な家庭となるか、あるいは「幸福」な家庭の外で、あなた自身はいつも孤独でありつづけねばならないでしょう。 看護婦との恋愛の場合、つとめて成就させて下さい。恋愛は必ず結婚にまでゆかねばならない、などと野暮なことは言いませんが、「独身の医者が結婚のために休暇をとり、院内のちょっとしたざわめきの中に故郷に帰って行ったその蔭に、眠られぬ寄宿舎の夜半、枕に顔を埋めてさめざめと涙を流した可憐の乙女が古今往来どれくらいあったのであろうか」(三原七郎、「三等院長のメモ」六〇頁)と、この心やさしい人であるらしい老院長をしみじみと嘆かせたような「正規の結婚までのトレーニング」は、しないでほしいのです。地方に赴任した独身医師の身辺は荒涼たるものであるにしても。この面での医師の不信行為は「もう沢山だ」といいたくなるほどであり、医師の「原罪」として、今やあなたも潜在的に「そんな奴」と思われても仕方ないぐらいなのです。そうして、あなたのそういう行為は、同時にどこか知らない、あなたの責任のもてないところで、医師と看護婦とのほんとうの恋愛のケースの正常な発展を妨害しているのかも知れないことを、思い合わせて下さい。(14)研究労働者の地位確立 最高水準の医学的科学は、医学部の研究室の中で必ずしも実現していません。あなたの大学の「ほこる」研究室の何割かは、現代の医学的生物科学の中での席をもちえないものです。日本にそれを実現させてゆくのは、すぐれた少数の中堅と手をくんだあなたの任務なのです。科学者としての知識・技術・批判力を身につけ、研究者そうして研究労働者の地位を確立し、じっくり研究室づくりにとりくむこと、その中でおのずとたたかいのみちがみえてくるはずです。研究労働者の地位が確立していないことは、日本の労働者が、研究者という名の研究労働者以下の存在である大きな理由の一つであることは、述べておかねばなりません。 研究活動が医療技術活動よりも、客観的で、周知されやすいことは、一つのこの面での強味です。弱点は近代的実験室なしには仕事が不可能なことで、したがって研究の場をまもることがもっとも重要なポイントになるでしょう。 研究労働者の地位が確立していないことが日本の研究の重大なたちおくれの原因の一つであることは、従来あまり注意されませんでした。 研究室労働は、工場労働とことなり、研究が未知不確定のものに対する探究活動である限り、労働内容がたえず再編成され、変貌してゆく特殊な労働です。高度の技術労働であり、日本にははっきり言ってそういうタイプの労働者の存在すら意識されていませんでした。ましてや、研究室内で、そういう人たちを訓練し、ふさわしい地位と待遇をあたえ、権利を守り、社会の中へかれらの主張を反映させることは、日本の科学者全体がとりあげたことのない問題です。そうして、進歩的科学者にとってすら、彼(彼女)らは「兵隊さん」であり、「ラボランチン」であり、漠然と試験管洗いをさせておけばよいと考えていたのです。 いま、日本の資本主義が、大学につとめていることを虚栄とするお嬢さんや、まずしく希望のない夜学生を急速に吸い取りつつある時、長期的にみて、私の主張を理解しえた研究室の研究は伸び、そうでないところは、更にたちおくれをみせるはずです。 あなたが研究室の中堅であるなら、すでにあなたが失ったものの大きさがわかるはずです。アメリカのように黒人の大学出身者をやすくやとって、高い水準の技術労働者の大量需要をまかなっているところの例は参考になりません。あとは、あなたが考えて下さい。 ただ、私の指摘にもし正しさが含まれるならば、それは、その時のイデオロギー的武器となるでしょう。(15)遠くから低い声が そうして、あなたは、ただ毅然としてきるほかはないことがあるでしょう。その時は、ただ毅然としているのがよいのです。あなたがもし周囲に何の連帯をも感じえないとしたら僭越だが、私のちいさな公刊物をとおして、とおくからの低声を感じとって下さい。なぜなら、楡林達夫は必ずしも一人の存在ではないからです。そうして、ユーモア、いたずらっ気、しゃれっ気を以て、事態と、あなた自身を、眺めて下さい。 けっしてくずおれてはいけない。くずおれたあなたへの同情は、死者への弔慰金と同じく、あなたの身につきません。それだけでなく、まだ戦っている、あなたの仲間、あなた自身は知らないかも知れない仲間をふかく傷つけ、挫折に誘い込むものです。 「ただ毅然たれ」(カミュ) 猛犬も毅然としている男には必ずひるむものです。何もできないときでも、事態を冷静に観察し、記録し、そこから教訓や法則をくみとることはできるはずです。 しかし、あなたは、最底辺の労働者ではないのだから、あなたの手もとにある小さな権力を、英知をもって使えば、いくつかのことができると思います。その権力は「医局」に由来するものだから、さしあたってあなたは「医局」の論理にしたがって動くことになるが、使えるものは何を使っても、武器である限りは、かまわないのであり、ただ、あなたへの心理的反作用をおそれればよいのです。 それを使って例えば、僚友や、他の医療従事者をまもって下さい。公然・非公然に。 しかし公然と守る時は、必ず、守り通して下さい。「ぼくは出来る限りやったんだ」という医師の側の自己満足のかげに、いっそう悲惨になった看護婦たちのかず多くの例があります。いかなる奸智をもちいてもよいのです。どうしても、守り通せないと思ったら、心の中で血を流すだけで、苦汁をのみ込んで、見送り、そうしてこの次には、擁護出来る条件をしずかにととのえて下さい。 現段階では、公然たる挫折は、同時に他の多くの潜在的挫折をともないます。ふかく、しずかな準備を、例の医師の美質をもちいてととのえて下さい。 少数の人間をふくむ戦いほど、個々人の性能の如何が非常によく利いてくるものです。人間的陣容の整備はきわめて重要であり、あなたが医局員の勧誘を命じられた時はそれを善用するのも一法でしょう。 大石義雄的苦心も必要だが、しかし、あまりびくびくしないでよいでしょう。私の経験によれば、「医局」の最大の盲点は、「真の連帯」を理解しないことであり、したがって、われわれの公然たる布石も、碁の分らない人間が碁石は全部眼にみえていながら、しかも碁がわからないように、存外わからないことがあります。無意味な医師を加えておくとことにそうです。事を公然と示しても企図は別とするのです。ある段階になるとこのように「真の連帯」の論理にもとずく行動を、企図を知られることなく大胆に行なうことが可能です。この場合も「医局の論理」は下級の武器、足軽としてさかんに用いてよいことは言うまでもありません。(16)新しい連帯の胎動 それは又消えるかも知れないが、あるものはときには、いくらか大きな輪となり、なりをひそめつつ、可能性をはらんで存続しうるかも知れません。 その運命は、大きな客観的諸条件と、その中であなたがつくり出した局所的な諸条件との相互作用のなかで決まってゆきます。 それからどうなるか、とあなたは尋ねるでしょうが、それから先は、いまはお答えできないのです。未来を思うことは青年の特権ですが、また科学は外挿法の危険なことを教えています。 もの事は、人の生命のリズムにあわせて進行するものではない、一世紀も歴史が動かなかったことも、十日でかわることもありました。無限の忍耐が必要であり、われわれは医師として、ただ待つことが息つく間もない多忙さと同等の重要性をもつこと、ペダンチックなまでの入念さと、拙速的果敢とを状況によって使いわけねばならないことを知っているはずです。 目下の段階では、「医局」の連帯とは異質の連帯が、その内部で確実に胎動することが重要であろうと思われます。 希望があるか否かははっきりしません。しかし、希望はただあるものでなく、生みだしてゆくものであり、あたえられるものではなく、力をそそいで維持してゆくものです。われわれ医師は絶望的な患者にすら、全力をつくす者ではないでしょうか。 そうして、希望が実現したとき、その実現した状態の中に身を置いてもはずかしくない自分をつくることも、同じく重要です。くり返していうように医学界は、あなたや私のうちにもあり、たたかいはまたわれわれ自身へのたたかいです。 さいわいにして、われわれは医師として、病気とたたかう中で、戦闘者としての素質を身につけています。いく度もいいますが、状況の全面的な、的確な把握、事態への迅速な方法的適応、決断と再考の弁証法に対する心理的訓練、絶望的状況に対しても最後まで音をあげないこと、これらです。これらは、あなたの直面している状況の中で生きうるものです。われわれは、もっとも粘りづよい抵抗者たる素質をもっているのです。(17)両面作戦 医学そのものの現段階が、はっきり体制と矛盾すること、しかもわれわれの抵抗においていっさいの医師の美質が動員しうることは、われわれを勇気づける客観的条件です。 しかし、「医局」は適応、適応また適応により、マイナスは一切個々の医局員の運命にかぶせてきりぬけようとしており、他方では中央権力は、実は内心「医局」を見放しつつあり、(私の本は高級官僚を非常によろこばせたということです。)むきだしの近代化によって、勤務評定と階層制による新しい体制を考えつつあるようです。文部省と厚生省という、権力内部の矛盾がこれにからんでいることは、察するに難くないことです。 われわれの抵抗は、ゆえにしだにに両面作戦のかたちをとる必然にあるでしょう。そうして、近代化を推進する権力の方が次第に前面に出てくるかも知れない、その時の状況を先取りして今から準備をととのえる必要があります。(18)革命家は別の入り口へどうぞ それは第一に、革命家も医師も、きっちりした時間割の限度で動くのではないショウバイであり、それを二つ重ねてあなたの二十四時間におさまるとは到底思えず、二つは相互に殺し合うでしょう。 また、医療は社会を根本的にかえる主要な側面ではないが、革命家のおちいる一つの初歩的な誤まちに、自分のたたかっている局面を変革の主要な側面と錯覚しがちなことがあります。そういうあなたの苛立ちははっきり言ってわれわれのたたかいに有害です。そうして局所的な戦いは、しばしば収拾が重要であり、壮大なキャンペーンを組んでそこに含まれている問題の一切を、オモチャ箱をひっくり返すように一切合財くりひろげてみせたい誘惑とたたかう自制心が必要です。この自制心がなかったため、キャンペーンの火元のその後の運命はしばしば前にまさって悲惨であり、それが革新陣営への公衆の不信のみなもとの一つとなっていることを忘れないで下さい。 そうして、革命家であるあなたがたは、しばしば、あなたがたの偉大な毛沢東の著作(いまや、アメリカ陸軍がベトナムでの戦闘に、フランス陸軍がアルジェリアでの先刻の戦闘に用いようとしたほど、戦術論として水準の優秀性をもつ本――かれらがそれでも勝てなかった理由は、上位の「戦略」がどうしようもないからです)を忘れて、公衆の面前では「社会主義にならなければ医療の問題は解決しないのだ!」とアジり、仲間うちでは、「どうせ社会主義にならなければ医療の問題は解決しないのさ」とあたためあうようですが、これほどあやまった態度はありません。あなたがたが根本的解決を全面的改革にもとめることは、同語反復にちかい「常識」にみえます。公衆が、もしあなたがたの見とおしが正しければ、医療に限らず、すべての領域にわたってそういう認識をもつはずですが、まず考えてほしいのは、そのときまで医療の中でどういうことをつみ重ねてゆくか、であり、そのことの努力の中でしか、諸条件の成熟はあり得ないだろうということです。 われわれは、医師となるために医師のみちをえらんだ無名の医師であり、「ただの人」です。ただ、日本の医学のために、いや、日本において医学が医学でありつづけるために、「医療の姿勢を正そう」として、どこからの理解をも期待せず、公衆の眼にふれずにたたかっているものです。革命家たちの内側に業績主義――成果の公表を、戦術的検討なしにやりたがる成果公表主義がある限り、われわれはむしろ、革命家たちを仲間に加えることをためらいすらするのです。それは私のまわりに、そういう連中の革命家しかいないせいかも知れないが、しかし、それはわが国革新陣営の一つの「原罪」につながるものであるかも知れません。(19)もう若くない「あなた」にも一言 あなたもかつては若い医者であった。その時、あなたは当時の医学界に対して批判をもたなかったか。むろん、医学界の論理(とおそらくあなたの力量)によってここまで来たあなた、老境のとおくないあなたには、自己変革をわれわれはもとめない。われわれはただ、日本の医療体制が、医学の進歩、そうしてその最高水準の公衆への普及、とはっきり矛盾することの理解の上に、「医学の姿勢」を正し、孤独な医師を、あるべき国民的連帯の中へつれもどそうとするだけである。あなたがそのことを理解してくれるならば、それは最上のことである。そうしてあなたが、かつて「医学」を愛し、おそらく今も愛しているならば、すくなくともあなたの教室、医局の中での、若い医師たちのさまざまな芽をおしつぶさないでほしい。われわれはあなたがきりひらいたみちの、遥かな子孫である。あなたが止ったところより遠くゆくとしても、それらは後にきたからにすぎない。ただおしつぶすことによって、あなたの、すでに深いであろう孤独が二重・三重に深まるだけだから、おやめなさい、というのです。 あなたには、あなたの孤独があることでしょう。リンカーンすら、手紙の中で「大統領は孤独なものだ。たずねてくる人はみな自分に何かをもとめてくる人たちばかりで、真に心の友はぱったりたずねて来なくなった」といっています。いまのところ、あなたの威令の前で、医局員はみな、ご無理ご尤とひれ伏しているかも知れません。しかしその中であなたは救いようもなく孤独ではないのですか。 あなたの医局員はあなたのどんな侮辱にも耐えるかも知れません。しかし、人は、ほんとうに尊敬している人間からのさげすみには長く耐えることができないものです。心底ではケイベツしているからこそ耐えられるのであり、それをうすうす感じているからこそ、あなたはますます猛りくるうのでしょうか。しかし、それでは悪循環であり、その悪循環の中で、あなたのもともとさほど高級ではない孤独が、質を低めつつ深まるばかりだということを、あなたの何十年かの生涯がさずけているはずの英知はおしえてくれないのでしょうか。 あなたは権力がある。それをたのしむほかに、いささかの善用を考えてほしい。さもなくばヨーロッパの伝統にしたがえば私の「同僚」であるあなたは、あなたが体現していると思っておられる「医学」からすら疎外されてしまうでしょう。どのように怒りつつでもよいから、考えていただきたい。(20)残さるべき死 もとより君は死ぬべきではなかった。すぐれた胸部外科のオペレーターの素質を示し、そうして、父君が君の死後語られたように、年間四十万円以上の費用を惜しみなく医学書に投じて、赤線や覚え書の示すようにそれを読破して行った異常なほどの勉強家だった君は、すぐれた医師としてどれだけの可能性をもち得たろう。 周囲の人たちは君の死を、ノイローゼと片付けた。私たちも君を救えなかった。君が「この世で起ることは、所詮せいぜい悲劇にしかすぎません」と書き送ってきた時、私も暗然としつつ、手を束ねるより仕方なかった。君が基礎医学方面の研究者として再起しつつあるときいた喜びも束の間だった。 君は死ぬべきでなく、ヒドラとたたかうヘラクレスのようにあるべきだった。しかし、これだけは言うことができる。君はもし、医学が日本で医学としてありつづけるならば、あるべき医師の未来像のあるものを先取していたのだ。 人々もまた、彼を殺したものの正体を思い、いつの日か、日本の医師団が、きびしく自己批判しつつ、高めあう作風の世界に転化したとき、それを最初にこころみて挫折した一人の若い無名の医師があったことを想い起してほしい。そうして医学界に身をおくあなたの中にも、「彼を殺したもの」がもうはいりこんでいないかを、点検してほしい。[topにもどる]Created by ez-HTML