被災地だよりNo.1 1996.4.20 地域型仮設住宅でのリラックス法の試み
 被災地だよりNo.2 1996.8.13 講義「震災での心のケアの実際」の感想
 被災地だよりNo.4 1997.2.20 外傷体験の援助モデル
 被災地だよりNo.6 1997.7.17 「安心」という人権を守るため「感じあう・語り合う・認めあう」社会を−神戸須磨のスクールカウンセラーの体験から
 被災地だよりNo.7       心に向かい合う     中村恵子
 被災地だよりNo.8       心が向かい合う     中村恵子
 被災地だよりNo.8       授業に活かせる教師のためのストレス・マネジメント教育研修会の開催
 被災地だよりNo.10       那須大水害の心のケア              
 被災地だよりNo.10       「子どもとトラウマ」を大学院の授業で視聴して


被災地だよりNo.1 1996.4.20
地域型仮設住宅でのリラックス法の試み         兵庫教育大学・冨永良喜
 
 被災者は避難所から仮設住宅に居を移した。マスコミ報道も震災関連はめっきり少なくなったが、秋になると仮設住宅での孤独死が連日小さく新聞に載りはじめた。死因が肝硬変とあるのはアルコール依存のようだ。年齢も決して高齢ではない。
 西宮の広川内科クリニックに時たまでかけたり、「震災ストレスほっとライン24時間」を続けて来られた精療クリニックの小林和先生から「月報」をいただいたりして、被災地の雰囲気を少しはキャッチし続けた。広川先生を、95年10月に尋ねたとき、震災関連で身体の不調を訴える人は減りましたと言われていた。それでも、新居に移って落ちつかないという人やどうも腕がしびれて仕方ないという人を紹介して下さった。一方、「震災ストレスほっとライン24時間」の「月報」には、重たい問題を訴えるひとが増えているようだった。「いまからが、精神科領域かな」と思い始めた。どこかの総合病院の精神科でボランティアを続けたいと思いはじめた。総合病院というのは、やはり内科にも心のケアを必要としている人が来るだろうという思いからである。
 私の行動範囲の狭さからか総合病院のボランティアはなかったが、神戸市外国語大学教授の羽下大信さんの引き合いで、神戸市東灘区の保健所に出入りできるようになった。すでに「こころのケアセンター」が発足しており、東灘区では「ふれあい心のマッサージ」という企画を六甲アイランドの一般仮設住宅で行っていた。私も何回か見学にいった。呼吸法やリラックス法などを中心になごやかな雰囲気でやっておられた。
 年の暮れから年始めになると1月17日が近づいてきた。マスコミは震災関連の報道をはじめた。電話相談もにわかに増えていったらしい。1月のはじめに広川先生を訪ねたとき、保険医協会主催の大震災メモリアルデーが14日と15日にあるので、来られませんかと誘って下さった。講演会・シンポジウムには参加できなかったが、仮設住宅訪問の企画に参加できた。全国各地から多くの医師が集っていた。その訪問先のひとつに芦屋の地域型仮設住宅(ケアつき仮設とも呼ばれている)があった。障害者や高齢者のためのケアつきの仮設があることは聞いて知っていたが、中を訪れるのは初めてだった。芦屋のケアつき仮設は中央に調理場・食堂と浴室があり、その両側に居室が並んでいる。その1室に「生活援助員」の和室が設けられていた。その地域型仮設の受託運営をされている特別養護老人ホーム苑長の市川禮子さんが、「精神障害の方と身体障害の方が一緒に助け合っており、精神科医や行政の方もこんなによくなるのかと驚いており、緊急対応としてはじめた混合型のグループホームがことのほかよかった」と語っておられたのが印象に残った。
 96年2月になって「地域型仮設住宅の1室で(動作法を)やってみませんか」と東灘区の精神保健福祉相談員のBさんが声をかけてくれた。2月23日、東灘区のC地域型仮設住宅でこころのケアセンター相談員のDさんと一緒に、「動作とイメージによるリラックス法」という名称で動作法を中心とした心のケアをはじめた。その日は2人訪れたが、なにより驚いたのは、相談員のDさんに動作法をした時である。「えー!被災直後に出会った人のからだの感じと同じだ」そう思った。からだはじわーと硬く、弛む感じも乏しい。しかし、コツがつかめるとすぐに弛められるようになる。疲れがたまりにたまっているという感じである。
 ほかの地域型仮設住宅でも「リラックス法」をすることになった。いつも5名ぐらいの人たちが集まってくる。震災の時に痛めた身体がまだ痛いという人が何人もいる。腰が重いと訴える高齢の男性は、「10時間埋められていたんです」と淡々と話す。震災直後のように、上気して語ることはないが、その時痛めた腰が痛く、いまだにうまく歩けないという。そこでの実践はもう少し取り組んだ後に報告したい。
 ところで、生活援助員の方は、リラックス法を入居者に奨めるために自分も体験したいとよく言われる。それで、感じることは、しこりがきつかったり、さっと動かせるが弛められなかったりすることが多い。被災者のからだの感じとは少し違うようだ。からだはかなり活動的だが、弛めることが難しい。多くの方の世話をされ、忙しく、休む暇がないという日常の体験様式とその肩の感じは余りに相似的だ。そして、生活援助員の方へのリラックス法が終わったあと、相談員のDさんと語りあっている表情がいつになくゆったりしていることが多いように思える。
 行政に携わる人は大変になっている。これは、もっと休暇をちゃんととるとか、そういった施策をやらないと、身も心も崩れてしまう。そう思っていた矢先、九六年三月十五日「神戸市の助役 須磨の海岸で焼身自殺」との記事が新聞に載った。心のケアは、被災者だけでなく行政に携わる人へも厚くなければならないし、この巨大ストレスへの対処法も色々なレベルから考えられなければならない。
 震災は日本の社会システムの良いところも悪いところもくっきりと浮き彫りにさせてしまった。だから震災での心のケアは、被災地の問題にとどまらない普遍性をもっている。そんな思いが鮮明になってゆく。             1996.4.20
 
 
 
被災地だよりNo2 1996.8.13
講義「震災での心のケアの実際」の感想
              兵庫教育大学・冨永良喜
 
 兵庫教育大学は現職の教員のために設置された大学院で、神戸から北へ約40kmに位置した町にある。揺れは大きかったが、地震当日も授業を行うなど被害はほとんどなかった。兵庫、大阪を中心に全国から教員が内地留学に来ている。同僚が血と汗を流しているのに自分だけ講義を受けることはできないと多くの人がボランティアに飛んだ。あれから、1年5カ月が経った今年6月、「教育相談」の授業科目の中で「震災での心のケアの実際」と題して、162名の修士1年生を対象に講義を行った。臨床心理士会や小林和先生らの電話相談、「考える会」のニュースレター、子どもたちへの心のケアの実際、動作法による心のケアの実際、こころのケアセンターの設立、それと私の援助モデルを紹介した。講義の終わりに感想を書いてもらった。
 162名中、阪神間で被災したもの32名。肉親を亡くされた方や避難所で重責を負っていた方の思いが綴られていた。また被災しなかった兵庫県の教員の多くはボランティアにでかけておりその体験も綴られていた。「ある若い母親は何かにとりつかれたように傘で子どもをつくようにたたきのめした。私は茫然と立ち尽くしたままで・・」といった述懐や、「本当に感謝されたのは、弁当を配った時ではなく、話しを黙って聞いた時でした」といった実感が込められていた。また、他府県の教員のほとんどが被災児童を受け入れた体験をもっていた。「疎開児童に被災体験を作文に書かせたのは誤りだったことに気づいた」とある教員は記した。また、被災地のある教員は、「子どもが落書きしているのを咎めたのは間違いだった。落書きに心が込められていたのかもしれない」と記した。東海大地震の危険性を指摘されている静岡の教員は「阪神大震災後、学校内に防災対策委員会が設置されたが、「心のケア」については全く話題に上らなかった。講義を聞いて心のケアの重要性がわかって大変参考になったし、早速生徒たちに伝えたい」と記した。北海道の教員は、「遠い地で起こったニュースのひとつにすぎなかったのが、講義を聞くうちに自分のからだが身震いしているのを感じた」と記した。また、「一世紀に一度あるかないかの特殊な事例をもとにした講義なんて実際の現場に帰っても役に立たないと思っていたが、講義を聞くうちに、震災の心のケアは学校現場の生徒の心のケアと本質的に同じであることに気づいた」とある教員は記した。このような感想は多くの人に見られた。また、島原から来た教員は、「(雲仙普賢岳で被災した)島原の子どもたちの心が荒れているのが気になる」と記した。被災体験のない人に、自分の個人史の喪失体験やショックを記載したものが何人もいた。母親の突然の死、交通事故のショック、肉親のアルコール依存などが綴られていた。
 Aさんは3回目の講義が終わるなり、「(小学生の)息子がこんな絵を描いたんです」と、地震の怪獣が描かれたノートを私に見せた。昨年から保健室登校が多くなり、今年の連休明けから登校拒否になっていた。私の講義を聞いて、地震が子どもの心に大きな影響を及ぼしていることを知り、息子に「なにか恐いことあるの」と尋ねると、その絵を描いたという。昨年の9月頃から「恐い夢をみる」と時折言っていたらしいが、それが地震の夢だとわかったのはこの絵を描いた時がはじめてだった。Aさんは「室内はぐちゃぐちゃになったが倒壊はまぬがれたので、それほど心を傷つけていたとは思わなかった」と語った。
 避難所の責任者をしていたBさんは「毎晩星空をながめながら「早くお迎えが来て欲しい」という、子どもを亡くした母親を案じて、カウンセラーを要請した。まだ若いカウンセラーは毎週ある曜日に来てその人の話を聞いてくれ、その後夜遅くまで避難所の運営や生徒の心について相談にのってもらって助かった。そのカウンセラーとは今でも交流があり色々相談にのってもらっている」と記していた。また「震災の授業は「目をそむけられない」のと同時に「胸が苦しくなる」という感じです」と記した。「『震災』という言葉を聞いただけで涙がでてくる」と友達に語っていた人もいた。
 被災地では、教員の疲れが目立つという。自ら被災者でありながら避難所を取り仕切ってきた。からだと心を癒す教員のためのグループワークを企画したい。動作法にこだわらず、ヨーガ、気功、マッサージ、指圧按摩など身体から入る療法とスモールグループで体験を語る会を試みたい。一緒に参加していただける方はご一報を。(Tel&Fax.0795-44-2282)(1996.8.13)
 
被災地だよりNo4 1997.2.20
外傷体験の援助モデル                  兵庫教育大学・冨永良喜
 
 アメリカ版PTSDは、ベトナム戦争の帰還兵が、戦争中の体験のフラシュバックなどの後遺症に苦しむことから、概念化されたものです。PTSDは、知覚過敏と感覚まひの2つの一見相反する記憶と感覚の障害(メカニズムは岡野(1995)がわかりやすい)を主としています。帰還兵は、悲惨な体験の渦中から脱出した後であることは自明です。阪神大震災の被災者は、避難所生活など、大きなストレスの渦中にいましたし、多くの方が今もいます。だから、まだポストになり得てなかったといえます。私は外傷体験の援助モデルをつぎのように考えています。
 心の世界には、よい体験(健康体験、以下○体験と呼ぶ)といやな体験(外傷体験、以下△体験と呼ぶ)があります。自分(◎)は、自己の中心で、主体です。健康体験と外傷体験のどこかに自分(◎)が居ます。知覚過敏の代表であるフラッシュバックは、やっとの思いで健康体験に戻れ、その中で生活している時に、突然△体験が襲ってくる現象といえます。そしてあっというまに外傷体験の世界に自分(◎)が引き戻されてしまうのです。
 避難所で出会った多くの人が語ったのは、被災体験ではなく、過去のよい思い出でした。ある老婦人は「私は大きな手術をしてお医者さんに助けてもらったんです」と、過去の困難な中での成功体験を熱心に語りました。その人にとっては、なお困難の渦中にいたのでしょう。そして、過去の外傷体験から脱出した体験を語ることにより、今回も同じく克服できると自分に言い聞かせているのだと思えました。子どもたちに地震画を描くことがマスコミですすめられましたが、神戸の激震地須磨区の小学校に避難していた子どもたちが2月のはじめに描いた自由画の多くは、花や動物や木々でした。外傷体験の渦中にいる人たち(◎(b))にとっての必要な援助は、なによりも、安心な・安全な感覚を取り戻すためのgoodな体験でした。安心な安全な世界に戻れてはじめて外傷体験が過去のものとしてとらえられ、◎(a)から△体験をみることができます。
 PTSDの治療法としては、除反応 (abreaction)が知られています。除反応とは、十分に意識化されずにいる外傷記憶を、その情緒反応とともに想起解放することとされています。心の傷が癒される過程で、それまで抑え込んでいた悲しみや怒りなどの感情が表出されることはよくあります。乳幼児期に囲炉裏に落ちて顔を火傷した少女が思春期に乗り物酔いとなった栗山(1995)の事例はこの除反応の過程をよくあらわしています。催眠による症状除去では、乗り物酔いは治癒したものの、過換気症候群に症状移行しました。そこで、催眠イメージ面接に切り替えたところ、母親への激しい怒りの感情があらわれ、次第にその感情がおさまるにつれ、心身症状は解消しました。
 このように除反応とよばれる治癒過程は確かにありますが、外傷記憶を思い出すことが必ずしも治療につながらないことも報告されています。治療につながらないどころか、日常生活がさらに悪化する場合も多いともいわれています。おそらく、自分(◎)の居場所を△体験においたまま、治療セッションがおわることにより、患者は外傷体験という過去に埋もれてしまい、(セラピストによって)過去に生きさせられることになるためだと考えられます。
 △体験の渦中にいる人へは、○体験へ戻ることを手伝う援助(←)が大切です。だから、なにげない「挨拶」や「世間話」がとても大切なんだと、そのことで「安心だという感覚」をもてるようになる。あるボランティア支援の会で、ある人が「仮設を回っているが、安否確認の挨拶しかしてなくて、薄情ものと思われていないかと心配なんです」と言われたので、「挨拶やなにげない話しがいいんですよ」とこのモデルで説明すると、ほっとされました。
 ・岡野憲一郎「外傷性精神障害」岩崎学術
 ・栗山一八「催眠面接の臨床」九大出版 (97.2.20)
 
被災地だより No.6   1997.7.17
「安心」という人権を守るため
「感じあう・語り合う・認めあう」社会を
      神戸須磨のスクールカウンセラーの体験から
                            兵庫教育大学・冨永良喜
 
 須磨のある小学校にスクールカウンセラーとして6月初めから7月中旬まで、週に1日通った。個人相談とは別に、午前中に保護者のグループ相談を募った。毎回10名ほどの保護者が訪れた。容疑者が逮捕されるまでは、見えぬ脅威から、いかに命を守るかがテーマだった。大人たちは語った。震災は大変だったが、それでも日々回復していく実感があった。でも、この事件の恐怖はいつ終わるかわからない。激震地で被災して、この北須磨にやっと引っ越してきたのにと嘆く人もいた。子どもたちの行動も変化した。トイレにひとりで行けなくなった。同じ部屋にいるのに「ママ!」と何度も確かめる。地震以来の恐がりが一層強くなった。元気な歌声がとなりの教室から聞こえる状況の中で、はじめて子どもたちの不安を安心して語ることができた。私は、「いいですね、素晴らしいお子さんじゃないですか、恐い気もちを『トイレについてきて』『ママ!』って表現できるんですね。『ついていってあげるよ』『お母さんはここにいるよ』と言うと、その子は『ほっとして、困ったときは人に相談できるんだ』ということを学びます。反対に、『しっかりしなさい』とか『頑張れるでしょ』という働きかけは、その子に『自分は弱い人間だ。だれも気もちをわかってくれない。感じたことを表現してはいけない』と感じさせるでしょう」と話した。震災での苦渋を体験しているためか、みんな私の話に大きく頷いた。集団登下校時、悲痛な表情でわが子の手を握りしめた沈黙の行列は異様な光景だと語る人もいた。グループで話し合う中で、「困っているのが自分ひとりではないことがわかって、ほっとした」との感想が多くあった。
 私は保護者の方々に、子どものおびえが強くなると、「言葉」で訴えられなくなり、吐くなどといった「身体」で訴えたり、閉じこもりといった「行動」で訴えるようになること。自分が感じたことを表現し、それを他者が支え、認め、共感することは癒しになるが、無理に表現させることは心の傷を深めること。怯えや悲しみに震えている子に、「恐い感情を吐きだして」というのはまちがいであること。震災直後、南須磨の子どもたちが自由に描いた絵は、震災の絵ではなく、動物の親子、木々、魚だったこと。怯えている渦中にいるときは、昔のよい体験を語ることで、心の充電をして、自分を勇気づけること。震災後、学校の正常化が子どもたちの心を安定させていったことなどを伝えた。
 しかし、逮捕されたのが少年であったことで、事態は一変した。マスコミで報道される原因らしきことに親たちは反応しはじめる。「ファミコンはやめさせたほうがいいのでしょうか?」「(少年を)社会がつくりだしたんだったら、同じような子が次々にでてくる」....それに対して、大人たちが何をするかも大切だが、子どもがどんな体験をしているか常に推し量ろうとすることが大切であること。認められない体験から憎しみが生まれること。あっという間に、人間は残虐になれることを、過去の歴史が教えていること。徹底して認められない人たちが吐くことばが「透明なる存在」であること。憎しみを癒すにはファンタジーと現実感のある「甘え」が大切なこと。憎しみのエネルギーを社会に受け入れられる行動に変えて行くこと。年齢に応じた上手な甘え方についても話した。しかし、子育ての体験はそれぞれ異なるため、グループではなく個人相談でないと対応できないように感じた。「人ごとではない」と訴える親は、子どもの生い立ちを語るうちに「私子育てに肩をいからせていたんですね」と実感を語りはじめた。帰り際、「田舎に帰ると『ほっとする』あの感じを思い出しました」とつぶやいた。
 精神的な虐待を受けてきたある人は「自分が人に認められ尊重される体験があって、はじめて人の命の大切さを実感できることをわかってほしい。大人たちが子どもを認めることをしないで、さまざまな規制だけを強化して行けば、憎しみをどうやって癒せばいいのか」と大学の相談室で語った。「認める」ことは「評価する」ことではない。ある障害児を抱えた親は「この子がここにいる。そのこと自体、うれしいし、楽しいし、感謝なんです」と語ったが、その思いが「認める」ということである。しかし、今の社会は成績や結果で人格が評価されている。結果を求めるために身体は道具となり酷使されている。「挑もうとしている・ひるんでいる・すくんでいる・やる気になっている」などの子どもの心の動きが大切なのに、それが見落とされ、子どもも大人もほっとできる時がない。家で、学校で、社会で「ほっとできる安心という人権」が守られているのだろうか。感じあい・語り合い・認めあう社会。安心して叱れる社会。今、おとなたちは、子どもたちの未来のために、「社会のしくみ」や「自分の心」の何をどのように変えたらよいのかを、確かめあい変革してゆく時である。この事件の苦しみと悲しみを安易に癒してはならない。
                                    1997.7.17
 
 
 
 
                                1997.12.1
特別寄稿
    心に向かい合う         中村恵子

 1995年1月17日未明に起こった阪神・淡路大震災。私は、神戸市内の自宅で、家族と共に被災しました。幸い、家族は全員無事でしたが、大地が揺らぐというあの体験は、自己の存在を脅かす恐怖以外の何物でもありませんでした。がれきの山を前にして、言葉も、願いも祈りすらも出てきませんでした。震災当日の夜、廃墟と化した街を真っ赤な満月が見下ろしていました。私は、ただ茫然とその月を眺めていたのを覚えています。理不尽だと思いました。何故、私達だけがこんな目に遭うのだろうか、と強く思いました。
 震災後3か月位で、被災地にもやっと「日常」の感覚が戻ってきましたが、この頃から私はPTSDとも言える症状を呈するようになります。震災直後に見た真っ赤な満月のフラッシュバック、不眠、何十年も出ていなかった喘息発作、そして腰痛。しかし、私は絶対にPTSDなどと認めたくはありませんでした。症状に名前を付けられたところで何になるのでしょうか。PTSDという言葉だけは知っていたけれど、それを認めてしまうと、自分が崩れてしまうように思っていたのかもしれません。身体とだけ折り合いを付けながら、ごまかしながら生きていましたが、神経性胃炎、理由の分からない発熱とさらに体調の悪い日々が続く中、少しずつ私は、これは身体の不調ではなく、心の不調であるとはっきりと気付いていきました。心の代わりに身体中が悲鳴をあげていたのでした。あの頃は本当につらかった。身体全体に膜が張ったような、身体と心が遊離してしまったような感覚にも時おり襲われたこともありました。
 心が風邪をひいているのならば、心の専門家に診てもらえば良い、と思いました。正直言って、抵抗が全くなかった訳でもなかったのですが、私はあるセラピストの元を訪れました。インテークの時に、そのセラピストが言った言葉がとても印象的でした。「よく生きていたね。とても健全な魂の持ち主だから、これ位で済んだんだね。」この言葉を聞いた時、とても嬉しかった。そして、今まで悲しいとかつらいと思うことすら、自分に禁じていたことがはっきり分かったのでした。
 震災当時のことを語っていく中で、次第に震災はひとつのきっかけにすぎない、ということにも気付いていきました。私は、過去の失敗体験や心の傷を、成長の糧とはできないまま、それらにしっかり蓋をしめて生きてきたようなところがありました。激震は、その蓋をすっかり取り払ったのです。地震の恐怖と過去の体験は共振し、増幅していったのでした。震災以前から、私は自己肯定感がとても少なく、劣等感の固まりのようでした。わざわざ震災に遭ってまでして、解決しなければならなかった私の心の課題とは一体何なのだろうか、と次第に考えざるを得なくなっていくのですが、「心に向き合う」、ということはとてもきつい作業です。直面したくないからこそ、蓋をしめ、鍵をかけていたものに対面せねばならないのです。何故こんなつらいことをしているのだろうか、そう思いながらも、私はカウンセリングを続けていきました。
 カウンセリングも中盤を迎えた頃でしょうか。「イメージの中で、子どもの時のあなたを、大人のあなたがおもいっきり抱きしめてごらんなさい。」と言われたことがありました。抱きしめて、息もできない位、抱きしめているうちに、大人の自分と子どもの自分がゆっくりと溶け合って、ひとつになっていきました。この頃の私は、きっと親の庇護を求めて泣いている幼児のような存在だったのでしょう。このセッションのあたりから、後半にかけてはイメージや絵画、夢を通してのまさにヒーリングだったと思います。これから先の心の変容は、本当に「体験」としか言いようのないものでした。
 セラピストから、存在を丸ごと受け止めてもらう、という体験をしていく中で、私は次第に自分を認め、許せるようになっていきます。病気も、痛みも、傷も、欠点もすべて私の一部なのだから、それらすべてを引き受けて生きていこう。他の誰でもない、私の人生を生きていこう、そう強く思うようなると共に、私はずっと苦しんできたさまざまな症状が、治らなくても仕方がない、とさえ思うようになっていきました。治すために、カウンセリングを受けているのではなく、この先生と同じ空間に存在することに意味がある、この先生と私が向き合うという「そのもの」が大切なことなのだ、と考えるようになっていくのです。セラピストは、沁みいるように話を聞いてくれました。絶対的な信頼感を持って、傍らに寄り添う人がいるだけで、どれだけ心が癒されるか私は初めて知りました。今この時を精一杯感じていくことに、心を向けていくようになり、次のセッションが楽しみにさえなっていきました。
 カウンセリングが進むにつれて、実に印象的な夢を見るようになっていきます。いつもフラッシュバックにでてくる真っ赤な満月が美しい金色の月に変わっていく夢。その夢をきっかけとして、連日、自分が死んだり、知人が死んでいく夢を見ました。さすがに不安に思う時もありましたが、セラピストは、「とても良い夢だ。」といってくれました。「心理療法とは、死と再生の過程そのものなのだから、とても良い夢なのだ。」と。自分は今生まれ変わろうとしているのか、と納得したことをよく覚えています。
 夢と並行して、この時期には、覚醒時にも不思議な現象を見たり感じたりしました。部屋の壁がユラユラ揺れたり、天井が少しずつ回っていく、というものなのですが、私にはこの奇妙な現象が幻覚だとは決して思いませんでした。たぶん、今、自分の身体を使って人生のダイヤルを合わせているのだろう、と思いました。例えれば、ラジオの周波数を合わせている途中なのだ、と。震災以来の漠然とした不安や安定感のなさ、どうしようもない生き難さが少しずつなくなっていくのを感じながら心の深い領域に触れる時には、こんな不思議なことも体験するのかと驚きました。しかし、同行してくれるセラピストがいたので、恐いとは全く感じませんでした。
 次第に、元気になっていった私は、カウンセリングの終結を意識するようになっていくのですが、まさに「終結夢」とも言える夢を見ました。私と、もうひとりの全く同じ姿をした私がいます。もうひとりの私は、私自身の中に思いきりぶつかってきて、それこそダイビングでもするように私の中にすっぽりとはまり込んでしまうのです。身体の奥底からとても楽しそうな笑い声が聞こえてきて目がさめました。目覚めた後、身体が暖かくて、そしてカチッと音がしたように思いました。ちょうどパズルの最後の一枚がはまったような爽快感がありました。最後の一枚とは私自身のことだと思います。この瞬間、私はこの世界から受け入れられている「感じ」を体験しました。この世界にやっと、はまったと思いました。震災以来の現実感の希薄さは全く消え、動物も、植物も、人間もみんな、根底ではつながっているような安定感を体感したのでした。
 ふと気がつくとあらゆる身体症状は消えていました。治らなくても良い、そう思えた時から治癒に向かうとは何というパラドックスでしょうか。でも私は治りたかった。楽になりたかった。しかし、ともに感情を分かちあってくれるセラピストに出会えて、逃げるのではなく、立ち向かうのでもなくそれが私自身の姿なのだから、と受け入れることができるようになっていったのです。受け入れ難いものを受け入れた時、初めて人は変容するのかもしれません。
 以上が私の体験です。私はこの体験から、セラピストとは、本当に共感する能力の高い人だという実感を持ちました。しかしそれは、何でも受け入れるという意味では決してありません。私のわずかながらの体験から言うと、セラピストは自分の感情も意見も精一杯出されていたように思います。違う時には、NOという強さも持たれていました。ただ、「心」そのものに対しては、大変、受容的だったと思います。人の心は、決して分かりきることはできない。だからこそ、互いの感情の交流が必要なのではないでしょうか。何でも受け入れていくのが、カウンセリングマインドだと考えている人(セラピストという職業についている人ではありません)を時折見かけるのですが、大変残念に思います。
 カウンセリングとは、傷や痛みを消してしまうことではない、と私は痛感しています。悲しみや切なさや痛みをしっかりと味わうこともまた、大変重要なことです。飛ぶ前にはより低くかがまねばならない、とよく言われますが、まさにその通りで、飛び立つための「心の援助」をセラピストからしてもらったのだと思っています。傷を乗り越え、それを生かした「生き方」ができるだけの力が、人間の心には宿っているのでしょう。
 私は今、とても安定しています。家族を大切に思います。仕事にも誇りをおぼえます。そして何よりもこの世界のあらゆるものと繋がっているような安心感があります。それは自分が置かれている状況が変わったのではなく、ただ「心」のあり方が大きく変容した、ということなのです。
                      1997.12.1
中村恵子さんは、西宮市立西宮養護学校の教諭である。私とは障害児教育キャンプで出会って数年になる。地震で腰の骨を折り入院。復職してからは、震災の後遺症に苦しむある肢体不自由児とともに、まさに共に生きていた。今年の3月、私が主催する催眠研修会に、彼女が参加したとき、彼女のカウンセリング体験を聞き、本当によかったと思った。その後、詳しい経過を手紙に綴ってくれた。感激で涙がでた。その時は、手紙をこのような形で、投稿のお願いをするつもりはなかった。しかし、神戸の少年事件では、カウンセリングがマスコミによって誤解されていると思った。彼女も同感だった。このたよりには、二度とあのような悲惨な事件が起こらないようにとの彼女の願いが込められている。        兵庫教育大学・冨永良喜
 
特別寄稿
    心が向かい合う
西宮市立西宮養護学校教諭 中村 恵子
 
 私は現在、肢体不自由養護学校に勤務している。養護学校に在籍する子ども達の重度重複化が言われて久しいが、勤務校もその例にもれず、多くの子ども達が自力で移動することができず、有意味語がない等、的確なコミュニケーション手段を持たない場合が多い。
 震災後、心のケアの必要性が大きく取り上げられたが、身体が不自由であり、かつ言葉を持たない子ども達に対してどのようなアプローチをしていくことが心の癒しにつながるのだろうか。誰にとっても、恐怖以外の何ものでもないあの震災体験だが、自力では逃げ出すこともできず、また言語で自らの体験を追想起することもできない子ども達にとってそのストレスは想像以上のものがあったように思われる。震災当時、私が担任をしていたある生徒はあの激震をきっかけとして大きく体調を崩した。その後1年あまり、その生徒と関わることで、私は「心の癒し」について実に多くの示唆を得た。
 その生徒が復調するまでの道程は決して平坦ではなかったけれど、人が人と関わるということの本質をその生徒から学び、その中で私もまた癒されていった。ここではその経過を述べながら、心の治癒について、自分なりに学んだことをまとめてみたいと思う。
 Aさんは、当時中学部1年生の女の子で、主障害は脳性麻痺である。自力では座位をとることも難しく、言葉はない。しかし、周囲の雰囲気は敏感に感じ取り、表情は大変豊かであった。視線、発声、表情で自分の意思を伝えることが多く、腕を揚げたり、舌を動かすことで「はい」や「いいえ」のサインを示すこともできるようになっていた。大人のしぐさや行動から、その場の状況文脈はよく読み取っていた。
 私は彼女との訓練の時間が大好きだった。彼女の笑顔は本当にかわいかった。そのAさんが西宮市内でも最も被害の大きかった地域で被災した。もともと身体の緊張が強かった彼女だが、震災直後から次第に筋緊張が激しくなり、それに伴い呼吸障害、摂食障害、睡眠障害が出現するようになっていった。彼女の身体症状は、いかに大きな不安や恐怖に遭遇したかを物語っていると私は確信した。何故なら、私もまた神戸で被災し、足元から根底を揺さぶられるような恐怖を体験した者として、不眠やフラッシュバック、頭痛といった身体症状を出し始めていたからである。彼女の問題は、私の問題でもあった。
 「彼女の笑顔を取り戻したい」と強く思った。私も他の被災者と同じく震災で多くのものを失った。自分自身が震災で失ってしまったものを取り戻したいという思いを、かなり彼女に投影していたのだが、その当時は全く気付かなかった。
 3月の末からさらに体調を崩したAさんは約2週間、入院した。彼女が、やっと学校に復帰できたのは、被災地にもようやく日常の手触りが戻ってきた5月初旬だった。この時期、被災地を被っていた異様な高揚感は次第に薄れ、祭りの後のような淋しい感じが私自身の心の中にあったことをはっきり覚えている。「被災者集団」としてではなく、ひとりひとりが「私にとっての震災」を見つめなければならなくなったのである。
 Aさんにかつての笑顔はなく、緊張が激しい時には車椅子にも乗ることができず、周囲に人がいないと大きな声で泣き出すことが多かった。私はまず、Aさんを物理的にも精神的にも「抱きとめよう」と思った。「ここは安全な場所だよ。もう大丈夫だよ。」抱っこしながらそう語りかけていった。地震の話はなるべく避け、砂遊びや水遊び、散歩など自然に触れる機会を多くするようにした。訓練に関しては主に動作法を中心に、身体のリラクセーションをはかっていった。
 Aさんの状態は一進一退だった。私もまた、とても疲れていた。秋が来て、さらに冬が来ても、あまり良い状態にはならなかった。被災地ですら、日々震災の記憶は薄らいでくる中、何か自分達だけが取り残されていくいような気がしていた。今振り返ってみてもAさんへのアプローチそのものは間違っているとは思えない。問題は私自身もまた震災の傷が癒されていないため、彼女の身体症状、彼女の痛みに共振し、互いの心の揺れが増幅されてしまっていたことにあると思う。方法論が人を癒すのではない。「人」が「人」を癒すということに目を向けることができていなかった。私はAさんを震災以前の状態に戻してあげることが、「回復」だと思い込んでいた。それは私が震災で失ったものを取り戻すことの象徴でもあった。
 新しい年を迎えた頃からAさんは、時折息を止めるようになり、チアノーゼを起こすことも何回かあった。ここまでして、彼女が訴えかけているものは一体何だろうか。考え込まざるをえなかった。私自身の体調も最悪で、一番つらい時期だった。この頃になってようやく、学校にいる時に息を止めるのは、私の前にいる時だけであることに気付いたのだった。私は自分の心の傷に直面せざるを得なくなった。
 震災からちょうど1年を過ぎた頃だったと記憶している。春を思わせるようなある日、Aさんとふたりで、散歩に出かけたことがあった。がれきの山だった街並みは、更地になり、新しい建物が建ち、いつのまにか新しい街並みへと変わっていた。その時、何故か「これはかつての私が知っていた世界ではなく、新しい世界がいつのまにかつくられていたのだ。」とはっきり感じた。とてもショックだった。私の時計の針はあの震災の日から全く動いていなかったと、この時初めて思った。震災で失ったものを私は取り戻したかった。そのひとつがAさんの笑顔だった。震災以前の状態に戻すことが「回復」ではないとはっきりと感じた。今、ここに在る「私」や「Aさん」の姿を見つめ、認めることからしか、なにものをも生み出すことはできない。Aさんは「今」の「自分自身」を見てほしかったのではないか、そう思うようになっていった。
 この日から、私は震災以前の状態に戻してあげたいとは考えなくなった。訓練の形にこだわることもなくなった。彼女の呼吸が苦しい時は、彼女の胸に手をあてながら、ただただ一緒に深く息をするようにした。彼女が泣き出した時は、今までのように彼女の「泣きを止めようとはしなくなった。悲しみは悲しみとして、十分に表現しきらなければ、そのプロセスは完了しない。閉じている心を無理に開ける必要はないし、感情を表現したい時もまた止める必要はないと思った。ただ、たったひとりで泣かせるのではなく、彼女の痛みや悲しみを少しでも分かち合いたいと感じながら、傍らにいることに心を向けていった。まず自分自身が自らのさまざまな感情を体験していなければ、他者の感情を受け止めることができないのではないだろうか。私は自分の喪失の悲しみを認めていなかったし、自分に対して「泣く」ことを許していなかった。このことに気付いてから彼女が泣く時、私も涙が出るようになったし、泣きたい時は一緒に泣いた。彼女が笑うと、心から嬉しかった彼女の身体が動く時は、自然と私も同調した。動作法での座位姿勢でのお任せ脱力の課題も再開した。人に身を任せることの安心感こそが、Aさんにとって最も必要だと思ったからである。緊張が入った時には、後方から包みこむように抱きしめるようにした。そして、少しずつAさんの身体を後ろに引きながら、その都度しっかりと抱き止めた。「倒れたりしないよ。先生がここにいるよ。」そのメッセージをこめながら、少し引いては、抱き止めるという動作を繰り返していった。次第に彼女は身体を私に任せながら、緊張により後方に反っている首をカクンと前に倒し、さらに大きな息をフーッと吐くようになった。彼女の身体から力が抜けた時、私もまたとても気持ちが楽になった。この時の心の交流は私自身の心をも軽やかに、そして優しくしてくれた。癒すこと、それはすなわち癒されることでもあると実感した。「元に戻ること」だけが回復ではない、私がそう思えた時から、Aさんは私の前で息を止めることはなくなった。
 重い障害を持つ子ども達と接する時、時として子ども達を自己決定する力がないかのように扱ってしまったり、反対に彼等の純粋性や無垢な心をあまりにも尊いものとして自分とはかけ離れた存在として見てしまうことが、それまでの私には多かったが、そのどちらでもないと思うようになった。人と人が向かい合う時、魂のレベルにおいては対等であること、全く対等な人間関係の中での心的過程の伝達からしか、真のコミュニケーションは成立しないということを、私はAさんから教えられた。私もAさんも、とてもよく似た「悲しみ」を共有していた。私達は、同じだと思った。
 ある日突然、Aさんが回復していった訳ではなく、その経過は薄紙を剥ぐように緩やかなものだった。Aさんのご家族の大きな愛情が彼女の最も大きな支えであったことはいうまでもないし、家庭では医療機関との連携もとても密にされていた。周囲の人々の彼女に回復して欲しいという願い、時には祈りにも似た思いが彼女の自己治癒力を引き出したのだろうし、私はたまたまそのプロセスに立ち会っただけなのかもしれない。しかし、私は、彼女と彼女のご家族に出会えたことを感謝している。身体レベルの表現とは形を変えた「言葉」であり、明確な自己表現である。その表現の奥にある思いをくみとっていく過程の中でこそ、人から愛されているという実感、人と思いを分かち合う安心感が生まれるということを彼女から教えられた。言語によるアプローチだけが癒しにつながる道ではないということも強く感じた。
 少しずつ彼女の笑顔は増えていった。緊張もだんだんと弱くなり、給食もたくさん食べられるようになっていった。いつのまにか、彼女が体調が悪かったということも忘れてしまう位になった。
 昨年の春、中学部を卒業した時には、Aさんは震災前とほぼ同じ状態まで回復し、笑顔で高等部へと進学していった。そして私もまた、このことをきっかけとして、震災による自分の心の傷をはっきりと認め、自分の心の内面に向かい合っていくようになっていった。                                 1998.3.5
 
「心に向かい合う」(第7号)と「心が向かい合う」(本号)で中村恵子さんの心の物語が完結した。技法は魂がこめられてこそはじめて生きる。中村さんの震災体験に心の癒しの真実を学んだ。感謝。           冨永良喜
 
 
  臨床心理士でない方の震災体験の特別寄稿を募集してます。身近にお心当たりのある方、投稿をすすめてください。

  授業に活かせる教師のための
ストレス・マネジメント教育研修会の開催               兵庫教育大学・冨永良喜
 
 とき・平成10年3月22日(日)午前10時半〜午後4時/ 会場・神戸国際会議場・401/ スタッフ・山中寛(鹿児島大学・日本オリンピック委員会スポーツカウンセラー・臨床心理士)・南敦浩(西脇市立重春小学校)・冨永良喜/ 対象・教師、心のケアに携わる人、臨床心理士をめざす大学院生/参加費・無料/申込方法・氏名、所属、住所、fax.tel番号.を記載の上、FAX.にて申込下さい。     問合せ TEL.0795-44-2285 Fax.0795-44-2279
 
 むかつく。キレる。少年の事件が連日報道される。年があけて間もなく、栃木で中学1年生が女性教師をナイフで殺害するという痛ましい事件に続いて、各地で少年の凶悪犯罪が多発している。マスコミは、「加害少年の気持ちがわかりますか?」と中学生に尋ね、何割もの中学生が「わかる」と答えたと報道した。この設問の仕方自体が、現代の人と人のやりとりを象徴している。「言葉」は自分の身体をくぐることなく、真の「気持ち」と遊離して放たれる。
 「やる気・自信・思いやり」という言葉は教育目標としてよく教室に掲げられている。しかし、実践となるとこれが難しい。教師はついつい「勉強を」教えることに熱心になり、親は成績に心を奪われる。その結果、子どもが今どんな気持ちかを感じることができなくなる。カウンセラーと教師との違いがよく言われるが、子どもの「やる気・自信・思いやり」が育つのを支援するという点では、両者は全く同じ役割をもっている。違うのは、方法である。教師は「勉強や部活など」で育てるのに対し、カウンセラーは「言語面接や遊びなどのイメージの中」で育てる。カウンセラーはむきだしになった気持ちを取り扱うのに対して、教師は、勉強という器の中に育まれる気持ちを取り扱う。だから、器という形があるだけ、気持ちが見えにくくなる。しかし、確実に「気持ち」を見据えて子どもと向き合っている教師はいる。
 ある養護学校の事例研究会で、ある教師が言った。「子どもの『自信を育てる』ことが教師の役割だと思っています。普通校にいたときもそうでしたが、障害をもった子を担任してもそれは同じです」と。担当した当時物へのこだわりが強かった生徒は、その教師のもとから巣立つとき、他の子の身体の具合を気遣うまでに成長した。また中学校に勤める若い教師は言った。「勉強を教えるだけなら、ビデオ教材とかに任せておけばいいんです。心を育てるのが教師です」と。そのクラスにはいじめられやすい子や学校を休みがちな子がいたが、一年後には、そのような問題はなくなっていた。
 ところで、「やる気・自信・思いやりを育む」という理想を、実践に移す方法論が今の教育の中で具現化されているのだろうか。いくつかの道徳の授業を参観したことがあるが、多くは「教える」授業だった。戦争の悲惨さ、差別の構造を教える。これはもちろん必要な授業であり、後世に伝えていかなければならないことである。しかし、それだけでは対応できない時代が来ている。
 私がスクールカウンセラーとして通う中学校で最近、「気持ち」の体験授業が行われた。県から「いじめ対策地域連携モデル」に指定されたこともあって、「いじめ」への対応として研究授業が行われた。研究授業のコンセプトは、人を傷つける行動を抑制し、人を思いやる行動を促進することだった。人を思いやる行動の育成に、リラックス動作法やイメージ法などをストレスマネジメント教育として提案した。
 「ストレス・マネジメント教育」は、ストレスを自己管理する教育プログラムである。自分をなだめる技法とメッセージを送る・読む技法からなる。なだめる技法の代表としてリラクセーションがある。たとえば、子ども同士ペアになって肩の力を抜くワークなどである。「(胸が)むかつく」はもともと身体からのつぶやきである。そのつぶやきにしっかりと対面し、自分で感情をなだめる技法である。それは、より大きなショックに遭遇したとき、自分をなだめ、他者にもたれ、甘える力を培う。
 わが国の教育では、力をいれて頑張る「独立のテーマ」は強調されてきたが、力をゆるめ人に甘える「依存のテーマ」は考慮されてこなかった。「甘える」には2つの意味がある。ショックに出会ったときの「甘える」には、「なだめる」という大人のかかわりが大切であり、それで子どもは安心感と安全感を回復してゆく。震災の時、「これほどのショックだから、人に甘えたい気持が起こらない方が不自然です」とマスコミからメッセージを送った方がよかったと思う。2つ目の「甘える」は、子どもが自らやれるのに大人に肩代わりを求める心理である。肩代わりすることは「甘やかす」ことであり、子どもの主体性をそこなう。だから、「なだめる」と「甘やかす」をはっきり区別する。
 もうひとつの「メッセージを送る・読む技法」は、「あなたは価値のある存在です」というメッセージを送り、それを体感のレベルで体験する方法である。たとえば、言葉を使わないでメッセージを送るワークなどである。そういったワークを通して、日頃、親が子へ、教師が生徒に、プラスのメッセージをどれほど送っているか確かめ合う。子どもには本来よい方向に動こうとする力があるし、素晴らしい教師はたくさんいる。原因探しではなく解決に視点をあてよう。心の闇を解明するだけでなく、心の光を結集しよう。
 
 神戸や西宮の教師からの申込理由を読むと、震災の傷跡の深さを感じる。              1998.3.7
 
被災地だよりNo10
 
那須大水害の心のケア             兵庫教育大学・冨永良喜
 
 那須町は、栃木県北部に位置し、那須のご用邸、那須温泉で有名な観光地、牧場の町である。冬は、スキー客でにぎわい、秋は紅葉が美しい。1998年8月27日、那須町・黒磯市を流れる余笹川が、集中豪雨のために、氾濫した。数日間で降った雨は、1年間の雨量に達したらしい。私の自宅に、臨床心理士でスクールカウンセラーをしている星健彦先生から、電話があったのが、10月初めだった。被害が大きく、雨の音を聞いても、おびえる子がいる。心のケアとして、リラクセイションも取り入れたいとの電話だった。日本心理臨床学会の「高齢者の動作法」の自主シンポジウムで、私が阪神大震災の心のケアについて報告したのを聞かれていたらしい。また、星先生は、ながねん、小学校長・中学校長を務めながら、教育催眠を実践していた。さっそく、震災や少年事件での心のケアの資料を送った。今考えると、すぐに、現地に行けばよかったと後悔する。その後、星先生からお電話をいただき、心のケアについて、講演会を企画したので、来てほしいとの電話をいただいた。幸い、藤森立男・和美先生らの災害の心のケアの科学研究費のプロジェクトに参加していたので、旅費は、そこから支給してもらった。
 11月22日、朝、東北新幹線、那須塩原駅に着いた。真っ青な空。遠く、朝日岳はじめ1800m級の山並みがそびえる。那須町教育委員会の先生と星先生の出迎えをうけ、講演会の那須町民ホールについた。那須教育長はじめ、スタッフの方々が迎えてくれる。講演会には、80名ほどの教育関係者が集まっていた。まず、被災体験を農業を営むおひとりの男性が話された。「家屋が流され、妻とふたりで激流の中、必死で一本の木にしがみついた。その木は、祖父が植えた金木犀だった。これからも、那須のこしひかりをつくります」と結んだ。つぎに、星先生が、子どもたちの心のケアの実践を話された。当初、ショック反応を示していた児童が、元気に回復していく姿を、語られた。「涙をいっぱい流せた子は元気になっていきます」と。
 講演会の依頼があったとき、私の講演よりも、被災した人たちが、心を分かち合い、助け合っていったことを語る場になった方がいいと思った。それで、できるだけ、多くの方に語ってもらってはと提案した。私は、お二人の話を受けて、阪神大震災や少年事件の心のケアで大切なことを話した。感情を身体に閉じこめても心に傷を残す。感情を無理に開かせても心に傷を残す。人が自然に感情を表現できるように援助し、その感情を他者がしっかりと受けとめてはじめて、心が癒されると話した。その後、リラックス動作法を行った。ペアになっての動作法で会場はあたたかな雰囲気につつまれた。
 教育長と昼食をとりながら、この水害で亡くなった元校長先生の話、那須町の歴史などをお聞きした。教育長は、「ひとりでも救われる子がいるのなら、(心のケアを)やりましょう」と活動主体となった平久井好一指導主事を励ましたという。午後は、教育相談会が数カ所で実施された。都精研の飛鳥井望先生のPTSDのアンケートに基づき、要配慮児童について、学校を通じて教育相談を実施していた。子どもの心のケアのためのボランティアチームが、すぐに結成されたらしい。栃木県教育研修所をはじめ教師、教師カウンセラー、保健所の保健婦さんから、構成されていた。
 私がお会いしたお一人は、都会の学校に通っていた。その都会は、被災とはまったく関係のない地域だった。「そうなんですよ。阪神大震災の時も、大阪と神戸ではまるで世界が違っていて」と、震災の避難所で出合った一人の女性(大阪に務めていたが、上司が震災のことを全く分かってくれない)を思い出しながら、話しをした。母親は、涙を流しだした。この2ヶ月のつらかった思いが心を巡らせたのだろう。震災を体験した人が、ボランティアで災害の地を訪れることは、役に立つとその時思った。
 「阪神大震災に比べれば、...」「他にもっと被害の大きかったところが、...」災害で傷つけられ、人によって2重に傷つけられる。日常の中では、おもいきり涙を流す場がない。確かに、ディブリーフィングは必要だ。少なくとも子どもの「心のケア」には抵抗感がなくなっており、むしろ、積極的に保護者は相談にやってきたらしい。「阪神大震災での心のケアの実績があったからこそです」と心のケアボランティアの方はみんな話していた。
 
 神戸の小・中学校にスクールカウンセラーとして行きはじめて、半年になろうとする。行くたびに、災害の傷跡の深さを感じる。中学校1年生は、小学校3年の冬に被災した。中学校2年生は、小学校4年生の冬に被災した。...せめて激震地の学校には、教師をたくさん送り込んでほしい。また、スクールカウンセラーは激震地の中学校には少なくとも1人はいる。文部省は、震災復興担当の加配を今後どうするのだろう。儀式として、研究指定を行うのではなく、子どもの心のケアのための数カ年計画を実現してほしい。
 
 災害援助のビデオ無料送付の案内
"Children and Trauma/ The School's Response"
  Produced by
Peter J. Spofford,MS( Mental Health Services)
Bruce Hiley-Young,MSW ( National Center For PTSD)
 
子どもとトラウマ 学校の役割
  - 災害のあと、子どもたちを援助するために
 
 朝日新聞厚生文化事業団から日本語訳ビデオとガイドブックが提供されています。ガイドブックの「はじめに」の一部を引用させていただきます。
 
            日本社会事業大学  西澤哲
 1989年、アメリカの北カリフォルニアはラマ・プリータ地震という大規模な地震に見舞われました。その後、地震による被害体験が子どもたちのこころにおよぼした影響をケアしようとする試みが、さまざまな形態でおこなわれました。その中でもっとも重要な役割を果たしたのが、子どもたちの通う学校のクラスルームでの取り組みだったのです。
 子どもたちにとって、学校やクラスという空間は、地震などの災害によって大きな被害、場合によっては壊滅的な損害を受けた地域において、唯一、安定した日常を提供しうる場所であり、また『壊された日常』のなかで、被災以前の生活との連続性を感じさせる唯一の空間になる可能性があります。また、教師という存在は、子どもにとって親に次いで重要な大人でもあります。こうした学校やクラスという空間で、教師という存在が中心となって子どもたちとともにおこなう活動が、被災によって傷ついた子どものこころにどれほどの『癒し』をもたらすか。それは想像に難くありません。
 本書は、ラマ・プリータ地震で被災した子どもたちのこころのケアをおこなう学校の先生たちを支援するために作成されたガイドブックの邦語版です。ここには、メンタルヘルスの専門家でない学校の先生方が、そうした専門家の支援を受けつつ、子どもたちを援助するための方法が具体的に記されています。.....略
 
    ビデオ問い合わせ
朝日新聞東京厚生文化事業団 ( 03-5440-7446 )
   〒104ー8011 中央区築地5-3-2
朝日新聞大阪厚生文化事業団 ( 06-201-8008  )    〒530ー8211 大阪市北区中之島3-2-4
 
「子どもとトラウマ」を大学院の授業で視聴して            兵庫教育大学・冨永良喜
 
 大学院の講義、幼年児童臨床心理学で、ビデオを視聴した。「アメリカ!という感じ。なんでも言語化すること、表現させることに、違和感を覚えた」「教師の立場から創られてない」「深いショックを受けた子に合わせてグループをやらないと救われない」「(地震が起きたとき)机の下にもぐるなんて、あの阪神大震災ではナンセンス」などの感情のこもった意見が続出する中、三田有馬高校の教師、落由佳さんは「このビデオと同じようなことをしてきた」と発言された。有馬高校は、神戸から北東に位置し、この地域の被害はほとんどなかったが、生徒は宝塚、神戸といった被災地からもたくさん通学していた。兄弟を亡くした生徒もいた。クラスの生徒の安否確認までに、1週間が必要だった。地震後、家族から離れるのをいやがり登校しない生徒もいた。「電車に乗ってて地震が来たらどうする。○○していて地震がきたら。...」繰り返し訴える生徒。落さんは、被災地から生徒が学校に復帰するたびに、授業をとりやめて、その生徒の話に耳を傾けたという。悪夢の話しやおびえの話しにみんなで耳を傾けたという。また、国語の授業で「水の大切さ」という作文を書いてもらったら、生徒は地震のことをたくさん書いた。
 彼女の話しを聞いて、私はみんなに話した。「感情を身体に閉じこめることは心の傷を深める。無理に感情を拓かせても心の傷を深める。自然に感情を表現できることを促し、そのひらかれた感情を他者がしっかり抱きとめること、それが癒しになる。アメリカとの比較で言えば、日本では直接話法より間接話法の方がなじむのかもしれない。直接話法とは、『地震の時、...』と問題を直接扱う方法であり、間接話法とは、落さんがだしたテーマ『水』のように、体験を表現したい人は、そのテーマに感情をのせていく方法。催眠イメージでの比喩でいえば、『野原』などの中性イメージの大切さ。わが国では、そういった工夫は必要かもしれないが、子どもの心のケアのあり方をこのビデオから学ぶことができる」と。落さんは講義の感想シートに「多くの教師にもっとPTSDを理解してもらいたい」と結んでいた。
                    1998.12.8