問いかけることで、批判的で創造的な思考を養う

―クリティカルシンキングを学びにどう生かしていくか―

『知の翼』 (日能研の情報誌)2006年5月号p.2-7に掲載されたものです。

この記事は『知の翼』の編集者の方と行ったインタビューのログを基に、後から編集者と私の共同作業によって再構成し、さらに加筆・削除・修正して作成したものです(ですから、正確には共著というべきものです)。完成した記事が対話形式になっているので、一見私がインタビュアの問いに対して、きびきび、スラスラと、ちゃんと文章になった答えを口述しているように見えるのですが、実際にインタビューの際に私がしゃべった言葉は、もっと断片的で、非文法的で、支離滅裂なものでした。編集の斉藤さん、神山さん、どうもご苦労おかけしました。
また、本来これが論文的な文章であれば、「引用」を記すべき所も何ヶ所かあるのですが、インタビュー記事という性質上、煩瑣なことを避け、そのままにしてあります。心当たりの方がおられたら、ご容赦ください。



インタビューの趣旨
 一昨年末に発表されたPISA(国際学習到達度調査)2003の調査結果では、義務教育修了段階(15歳)のわが国の子どもたちの「読解力」の低下が大きな話題となりました。ここでいわれている「読解力」とはいわゆる"批判的(あるいは批評的)な思考"であるとされています。するとこの結果が意味するのは、日本の子どもたちに「読み書き」の力が不足しているというより(もちろん、それもあるのかもしれませんが)、日本の教育場面にこの"批判的(批評的)な思考"を身につけるための訓練が欠けているということになるのでしょうか。今月は、クリティカル・シンキング(critical thinking=批判的思考)をキー概念にして、『学び』や『教え』のあり方を問い直すことを研究テーマの一つとしておられる、兵庫教育大学講師の宮元博章先生にお話をうかがいました。
 
物事を一回ひっくり返して、さまざまな角度から考え直してみる
インタビュア 「クリティカル・シンキング」はふつう「批判的思考」と訳されますが、「批判的」というとそれだけで抵抗を感じてしまう人がいますね。
宮元

「批判」ということに関しては、文化の違いもあるので、たとえば欧米では日本ほどきつい受け取り方はされないのかもしれません。しかし面と向かって批判されるのはやはりどこの国の人にとっても快いことではないでしょう。琉球大学の道田(泰司)先生は「批判する」ことと「批判的に考える」ことを区別せよとおっしゃっていますね。アメリカ人たちに話しを聞くと、彼らはよく「自分たちは常にクリティカル・シンキングしようとする」と言うのですが、ただ、アメリカで書かれたクリティカル・シンキングの本の序文などを読むと「物事をきちんと考えない人がこんなにいる。だからこそクリティカル・シンキングの教育が必要なのだ」といったことが書いてあります。つまり彼らにとっても、クリティカル・シンキングというのはなかなかできないことなので、問い直す価値がある考え方ということなのでしょう。

クリティカル・シンキングを日常の言葉で言い換えると、「物事を一回ひっくり返して、さまざまな角度から考え直してみる」ということになるかと思います。

インタビュア あることを考えたり、さまざまな情報に接するときの心構え、態度といったものでしょうか。
宮元 心構えや態度を伴った知識や考え方と言えばいいでしょうか。先述の道田先生と一緒に書いた『クリティカル進化論』では、秋月りすさんの漫画を使い、普通の人々の日常場面を通して、身近な問題を常識や通説に惑わされず、自分でできる範囲では自分で考え、適切な判断をしていくことの大切さとその方法を説いています。これ自体は目新しい特殊な考え方ではありません。ギリシャ時代以来ずっと求められてきた哲学の伝統にあるような考え方です。しかし、現代のような情報のあふれる情報化社会、さまざまな価値観に接する国際化社会、そして人権が重視される民主的な社会ではこうした考え方が特に必要とされるのでしょう。
インタビュア 先生はどんなことから「クリティカル・シンキング」に関心をもたれるようになったのでしょうか。
宮元 私は大学、大学院と心理学を専攻してきましたが、大学院時代に看護の専門学校で教える機会を得ました。その学生たちに何をどう教えたらいいのかいろいろ考えました。彼らは心理学の専門家になるわけではないので、細かい知識や理論を覚えさせる必要はない。といって人との上手な接し方のようなハウツーだけではつまらない。学生たちがそれまで培ってきた素朴な理論や、これまで得てきたさまざまな情報を改めて問い直させてみるのはどうだろうかと。

その頃ちょうど心理ゲームや血液型性格判断や種々のオカルト的なものが流行っていたのですが(もちろん今も流行っています)、私は研究室の仲間と、そのようなトピックを題材に、物事を安易に信じてしまう人間の心理はどういうものか、現時点での科学的知見はどうかといったことをテーマにした本を作り始めました。それは一風変わった心理学テキストになりました。その本でも、単にこうした俗説の否定的な面を指摘して批判するだけではなく、むしろどう考えていくかが大事なのだという点は強調したつもりです。ただ、考え方自体を前面に出したものではありませんでした。その頃、欧米で「クリティカル・シンキング」という考え方が提唱されていることを知り、これこそまさに私たちに必要な考え方だと思ったわけです。
インタビュア クリティカル・シンキングという言葉はさまざまな職業分野で使われていますね。
宮元 仕事を進めていく上での問題を発見し、解決策を探るためにもクリティカル・シンキングは有益です。実は、日本では看護分野の人たちがいち早くクリティカル・シンキングを導入していたのです。看護の場では、患者さんが身体や言葉を通して発する情報から意味をどう読み取るか、そこからどのような医療・看護方針を立てるかがきわめて重大です。また、さまざまな社会文化的背景の中で生きてきた患者さんたちとコミュニケートする上では、医療業界内の枠組だけに留まっているわけにはいきません。そのようなところでクリティカル・シンキングが発展してきたのですね。
 
「問う」ことで「学び」が深まる
インタビュア 国際的な学習到達度調査で、義務教育修了段階の日本の子どもたちの「読解力」の低下が問題になりましたが、それは日本の子どもたちに先生のおっしゃるところのクリティカル・シンキング、つまり「批判的な読み」が身についていないということなのでしょうか。
宮元 「批判的に読む」というのは、「問いながら読む」ということです。問うためには、まずそこに書かれた話や文章を理解しようとしなければなりませんが、その中で「でも、ちょっと待てよ」となるわけです。そのときに、既に持っている知識が生きてきます。よく、「知識か思考力か」というふうに両者を対立させた言い方がされますが、知識を使って思考し、批判する。批判する中で知識の更新が求められるようになる。ですから両者は対立するものではないのです。

今子どもたちに不足しているのは(大人たちも不足していると思いますが)、知識と思考や批判を結びつけて、循環させる技量や習慣だと思います。
インタビュア それをするにはどうするのが効果的だとお考えですか。
宮元 授業中の先生の言葉の扱いが大切ですね。まず、どんな小さなことでも、そう思う理由、根拠を言ってもらうこと。どんなにつたない言葉でもかまいません。それから、授業中に子どもたちがボソっとつぶやく言葉を拾って、「問い」を導き出すことです。最初から「疑問をもちながら読みなさい」と言われたって、われわれ大人だってむずかしいでしょう。

また、教室というのは閉じた世界ですから、子どもたちは先生に教えられるままに「そうなのか」と受け入れてしまいがちです。でもそれをちょっと日常の出来事や遊びの場に結びつけて考え直させると、「でも、こんなときはどうなのだろう?」という疑問が出てくる。これは先生に意識してやっていただきたいことです。子どもたち自身がその疑問に何らかの答えを出すことにより、子どもたちは「面白い、またやろう」と思うようになります。批判的な読みというと国語に限定して捉えがちですが、国語だけでなくどんな教科でも「こういう考え方もできる、ああいう考え方もできる。考えることって面白いんだ」ということを子どもに実感してもらいたいですね。

要は「学ぶ」ことと「問う」ことは別物ではなく、学びの中から問いが出てくるし、問うことで学びが深まるのです。こうした表裏一体の関係を、先生も子どもも実感してほしい。そもそも何のために批判的に考えるのかといえば、よりよく知りたいからであり、よりよい方法を見つけたいからでしょう。ですから、クリティカル・シンキングとクリエイティブ・シンキング(創造的思考)は実はセットになっているんです。
インタビュア よりよく「問う」ためのコツのようなものはあるのでしょうか。
宮元 自分で問いを出せたとき、「こんなことを問うことができた」という振り返りをしてみたり、人が面白い問いを発したときにそれを注意して聴いたりというようなことを習慣づけるといいですね。私は大学生向けに「批判的な問いのリスト」を作ってみました。例えば「事実と主観的な意見を混同していないか?」「暗黙の前提はないか?」「不用意な二分法をしていないか?」などです。これで全部というわけではなく、あくまで例ですが。こうしたリストを利用して問う訓練をするのもいいと思います。
「批判的な問いのリスト」の例
  • 事実(〜である)と主観的な意見(〜と思う)を混同していないか?
  • 情報源は明示されているか、また、それはどのくらい信頼してよいか?
  • 主張の鍵になるような重要な概念について、定義がなされているか?
  • その定義は私の考える概念の意味とどの程度一致しており、どの程度ずれているか?
  • その主張には理由(根拠)がついているか、理由のついていない言い切りか?
  • その主張や問題は検証や情報収集によって真実を確認できるタイプのものか、あるいは人々の価値観を考えなければならないタイプのものか?
  • 暗黙の前提はないか?
  • 主張の内容に整合性はあるか? 矛盾している点はないか?
  • その結論は全てのケース、全ての人に、いつでも当てはまるのか?
  • 不用意な二分法をしていないか?
 
「教える」「問題を作る」という教師の役割を学びに活用する
インタビュア 先生は現在、教育大学で教員を目指している学生さんを相手に授業をされています。こうした未来の"先生"たちに対して、授業では特にどんなことを心がけていらっしゃるのでしょうか。
宮元 私は教科書を使わずにプリントを自作することが多いのですが、それはプリントを作る過程で、まず自分が改めて内容を理解できるからです。私はいつも学生に「学ぶための一番いい方法は人に教えることだ」と言っています。人に教える場合、「自分は何を知っているのか、それをどうつなげて、どう説明するのか」を考えなければなりません。知識を体制化するということですね。実際、ある演習での課題は「子どもに心理学を教えるための教材を作れ」というものです。学生は教えるために学ぶのです。
インタビュア 子どもたちでも、他の子に教えたり、説明したりすることで自分の知識が整理できたり、自分が本当はわかっていなかったことがわかってきたりすることがありますね。
宮元 ありますし、そのことが効果的な学習になるわけです。さらにもう一つ、そのテーマについての問題を作らせるという試みもたまにします。よくわかっている学生はいい問題を作りますね。よくわかっていなかったり、どこかで勘違いをしているような学生の場合は、それが反映されるような問題になります。問題を作る練習ですから、これが正解というものはありません。ただ、面白い問題とあまり面白くない問題はあります。学習場面で問題を作るだけでなく、日常場面での思考力をつけるためにも問いを作る練習は有益です。例えば「ある国を旅行したら電車やバスが頻繁に遅れるという経験をした。その理由を探るためにはどのような問いを立てればよいか」というような練習です。もちろん、問いは一つではありません。多面的にいくつも考えてみるのです。ですから「練習問題」ではなく「問題練習」なのです。そして自分で作った問題はまず自分で答えてみたり、人に答えてもらったり、さらに発展的な問題を作ったりしてみます。
 
クリティカル・シンキングは子どもの可能性を拓く
インタビュア クリティカル・シンキングを親と子の間で生かしていくためにはどうしたらいいでしょうか。
宮元 いろいろあると思いますが、例えば家庭でニュースに取り上げられた問題について、大人が「ああかな」「こうかな」と論じている、その姿を子どもが見るというのはいいことですね。子どもは親の姿を見て育ちますから。時にはその中に子どもも交えて問いを発して話し合うともっといい。そのとき、「これはこうなんだ」と決めつけるのではなく、むしろ子どもの見方からも学ぶつもりで話し合ってみるといいでしょう。子どもには子どもなりの経験的知識や子ども社会の規範があるという可能性を考慮しながら、子どもの考えの「筋」を追おうとする姿勢を親が見せることです。必ずしもその考えを受容しなくてもいいのですけど。

また、親の目から見てどうもダメなことをしているように見えても、親の想像を超えて、子どもが何かをなし得る余地はあります。もちろん、想像を超えて悪いことをなし得る余地もあるわけですが…。それが何かは今の自分にはわからないけど、何か他の可能性はある。こうした「余地」を残して考える姿勢が大切です。クリティカル・シンキングというと、ダメな考えをつぶしていく面も確かにあるのですが、本当はよりよい可能性を拓くことこそクリティカル・シンキングの真髄なのだと思います。
インタビュア 問いを発しながら考えていくというと難しそうですが、案外親よりも子どものほうがすんなり身につきやすいかもしれませんね。
宮元 そうですね。ある編集者からうかがった話しですが、『クリティカル進化論』を中学生の息子さんに読ませたら、あるとき「お母さん、その考えはクリティカルじゃないね」と言われたそうです。"生意気"になって親としてはやりにくくなったわけですが、うれしくもあったそうです。「クリティカル」という言葉が意外と使いやすくて、その点は紹介したかいがあったなと思いました。
インタビュア 子どもがクリティカルであるためには、身近で当たり前と思われていることにも「なぜ」「どうして」という問いを発せられるような環境をつくること大事ですね。
宮元 子どもが家庭以外で1日の大半を過ごす場は学校です。学校にはよく考えたら変なところがたくさんあります。例えば、小中学校で「テストをします」と言うと子どもは教科書を一斉にしまい始めますね。誰もがテストというものは教科書を見ながらやってはいけないものだと思っているからです。「テストのとき、なぜ教科書を見てはいけないんだろう?」そうした疑問を持っていいのです。教科書を見てはいけないというのは、要するに記憶力を問うているのでしょう。大学などでは、考える力を問うテストなのだから何を見たっていい場合もあるのです。こうした「問い」をたくさんもつこと、そしてその問いを親たちも一緒に考えたり調べたりすることで、子どもたちの批判的で創造的な思考力、つまりクリティカル・シンキングの力が伸びていくのだと思います。