あまのじゃくのススメ −「心の時代」の前提を問い直す−
(私のすすめる本)

『看護教育』 (医学書院)2002年10月号p.794-795に掲載されたもの.
ただし,Web化する際に一部加筆しました(青字部分)


 心のケア,心の癒し,心の傷,心の闇,心の教育,こころ,ココロ……と,近頃,何かと言うと「心」なのである.それに関連して,カウンセリング,何とかセラピー,何とかチルドレン,脳の男女差,「困った人たち」,EQなどなどの,いわゆる「心理用語」も花盛りだ.そうした傾向は「自分」という言葉にも表れている.自分らしさ,自分探し,自己実現,自己決定,自分で考える…….そう言えば,某パソコンのCMで,ある青年の部屋に唐突に入り込んできた謎の中年男が,青年の作ったホームページをのぞき込んで,「自分,自分,自分……みんな自分が好きなんだ」とつぶやくのが妙に印象に残っている.パソコンを売ろうっていう会社が,自作ホムペ作って悦に入っているヤツを皮肉っていいのか? しかし,こういうイヤミを言うヤツもたまには必要なのだ.

看護の領域でも「こころの看護」が重視され,また看護師も自らの心をよく理解し,人間関係の問題や,仕事のトラブルや,ストレスを上手にマネジメントする能力が強く求められているのではないか.それのどこが問題なのだ.良いことではないか.その方法を手っ取り早く教えてくれる本を紹介してくれと言われるかもしれないが,その手の本は掃いて捨てるほど転がっているので,むしろ今回はあまのじゃくに,そうした「こころ」主義の前提を改めて俎上に乗せ,問い直しているような本を何冊か紹介したい.

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書(1999)では,現代の日本社会で広く共有されていると思われる青少年や教育に関する「イメージ」を取り上げ,それをデータを元に検証している.そのイメージを挙げると「昔は家庭のしつけが厳しかった」,「最近はしつけに無関心な親が増加している」,「近年,青少年の凶悪犯罪が増えている」,「家庭の教育力の低下が,青少年の凶悪犯罪の増加を生み出している」などである.確かに,何かというとテレビのコメンテーターや評論家が口にしているし,皆さんも日々の経験を通して実感しているのではないだろうか.本書ではこれらのイメージをデータによって覆していくので新鮮な驚きがある.

 広田によると,近年の親たちは(そして社会も)あまりにも「パーフェクトな子ども」を要求しすぎているという.そこでは,きちんと自分をコントロールし,社会に迷惑をかけず,自発的に勉強する一方で,あまり世間ずれせず「子どもらしい」純朴さもあわせ持たなければならないという無理な要求がある.だから,当然の結果として,子どもに対して不満が出る.また,安易な心理学的知識や「子育てマニュアル」のばらまきと,それを安易に受け入れる人々が増えたために,子どもの問題の多くが,もっぱら子育てや教育の「失敗」に還元され,責任を負わされる.そのために子育ての不安が高まっていると説く.

 心理学的知識により他者や自己をコントロールするスキルの習得への欲求と圧力,また多くの問題を「個人の心理的適応」の問題として捉え,カウンセリングや各種の自己啓発プログラムや心理学本等によって解決していこうとする傾向を「心理主義」と呼ぶが,この風潮にメスを入れた挑発的な本として,森 真一『自己コントロールの檻』講談社メチエ(2000)や,小沢牧子『「心の専門家」はいらない』洋泉社新書y(2002)が面白い.

 森は,現代の「心理主義」を,高度化する自己コントロール(マクドナルド化)と,人格の過度の尊重(人格崇拝)という2つの観点から分析している.彼は「キレる」という現象は,自己コントロールの欠如によるというよりも,普段過度にコントロールしているゆえの反動と,「自己」を侵害された(と知覚する)ことへの過剰反応であると解釈している.この解釈は思弁的で疑問も残るが,現代の日本社会が自己コントロールと自尊感情を当然のこととして奨励し(だから逆に「困った人」が目につくし,誰もが「困った人」になりうる),そのために,いわゆる心理学的知識が強く求められているという現状分析は正しいだろう.

 誤解のないように補足しておくが,カウンセラーと呼ばれる人達がよく自己啓発本やテレビ・雑誌等で言うような,「現代社会に生きる私たちは,普段あまりにも社会的役割に縛られ,世間の目を気にし,本来の自分の感情を抑え込みすぎている.そうした心の鎧を脱ぎ,心を解きほぐして,本当の自分自身に戻ることが大切だ」的な,自己コントロールしすぎることへの戒め,脱自己コントロールの薦めというのも,森の観点ではもう十分に立派な「自己コントロール志向」になる(…と私は解釈している).

 実を言うと私は森の本を読んでグサッと来た.同時に,自分の立場を相対的に位置づけるパースペクティブと「課題」を貰って大変ありがたかった.私はクリティカルシンキングを説いて廻っている者だが,どうもクリティカルシンキングという考え方にハマって以来,クリティカルシンキングの理念には(技術的にそれが習得できるかどうかは別として,その理念には)欠点がないような気がして気持ち悪い面もあったのだ.私の説くクリティカルシンキングは,そこいらのいわゆる自助マニュアル本とは違うと高を括っていた所があったのだが,森の観点からすれば,心理学的知識や発想を基にした高度な自己マネジメントスキルを助長しようとする志向を背景にしている点では,さほど違いはないのかもしれない.自分で自分の立場を相対化することは難しい.こうした異なるパースペクティブから照射され,見えてきた問題点を考察することで考えの幅と深みが増すのだ.

 小沢はよりストレートに,「心の専門家」による「心の治療・ケア」という名のもとに行われている社会的管理を拒否する(彼女自身も心理学者であり,かつて心理臨床にたずさわっていた).かなり極端な見方だとは思うが,これまで「心をケアする」ことの意義について何の疑問も感じなかった人にとっては,対極点からの立論があり得ることを認識するだけでも価値があるだろう.

 あまのじゃくな人の代表として,中島義道『私の嫌いな10の言葉』新潮社(2000)も挙げておきたい.中島が嫌いな言葉として挙げているのは,「相手の気持ちを考えてみろよ」,「ひとりで生きているんじゃないからな」,「もっと素直になれよ」,「弁解するな」,「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ」などなど.思春期にはこうした「善良なおとな」の言葉に対して無性に腹が立つ時期もあるものだが(ただ,その頃はその腹立たしさをうまく言葉にできない),五十も過ぎた人が憤るところがすごい.本書での彼の主張はもっともな面もある一方,論理的とはいえず,「困ったオヤジ」の独断と偏見と言ってよいものだが,本書を通して彼が伝えたいのは,おそらく独断でも偏見でもよいから,自分の感じる不快感を言葉で徹底的に考え,そして相手と言葉で語り合えということのようだ.私がこの本を薦めるのは,時にはあまのじゃくに「ノー」と言うことそれ自体をおもしろがってもらいたいからだ.この痛快な本を読んでしばらくの間,我が家では「むしずが走る」という言葉が流行した(外では使わなかったが).知らず知らずのうちに「ものわかりのいい善人」になりかけていた自分に気づかせてくれた本である.

 基本的に当たり前のこととして語られないか,語られても検証されることのない前提や「常識」「決まり文句」の存在に注意を向け,疑問を投げかけることは難しい.これには多少なりとあまのじゃくを楽しむ心性と,書物や,考えを異にする他者との出会いを通して,自分の中にあるステレオタイプが崩され,驚く経験を積むことが必要だろう.しかし,それを自分自身で意識的に系統だった方法でやっていくことはできないか? さらに,単にあまのじゃくにケチを付けるだけではなく,疑問や違和感を良質の「問い」に変換して,検証していく方法を身につけさせてくれる本はないか? 最後にそういう本を紹介しよう.苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社(1996)である.「思考法」を説く本はあまたあるが,これは日本語で書かれた本の中で,私が知っている限り最良のものである.

 *森 真一や小沢牧子らによる「心理主義」への批判に関しては、小沢牧子編 2002 子どもの〈心の危機〉はほんとうか? (〈きょういく〉のエポケー第2巻) 教育開発研究所 も参照してほしい.

宮元のページへ戻る